どこかで、箍が外れてしまったのではないかと思う。

 小牧長久手に設けられた刑場近くの地下牢で、孫権はぼんやりと考え事をしていた。
 なすべきことはすべてなし終えた。
 合肥の地から逃げ延びた孫権は、遠呂智軍の本隊に帰還した。それまでの居城にはもう誰も残っておらず、そしていずれにしても捕らえられるのは間違いなかったからだ。
 当然、処罰を受けるだろうことは分かっていた。
 …間に合うといいのだが。せめて、父だけは。
 己の生死の行く末は、孫権はどこかそれを他人事に感じていた。合肥以来、なにか自分と離れたところで頭だけがやけに冷静に物事を進めているようだった。
 その一方で、心はたった一つの面影だけを繰り返し映し出している。
 あの時、兄に敗れ、斬られてしまおうと項垂れた孫権の前に現れたその姿。
「……今です……」
 そう言っていつものように前に立った後ろ姿が、後半は滲んでぼやけた。一瞬のことで、しかしその横顔はしっかと目に焼き付いている。
 その姿を思い浮かべればただ恋しさだけが胸を満たし、残酷な世界は孫権から遠ざかる。
 妲己に処刑を告げられた時も、夜、見知った顔ぶれが牢を訪れ始めても、もはや心に浮かぶのはあの顔だけだった。自分にもたらされる何もかも今となってはどうでもよかった。
 ああ、どうせ死ぬのならば、恋情に溺れて息も止めてしまいたい。
 かつて想いを押し止めていたのがうそのように、今はただひたすらに彼の面影を追っていたかった。おそらく二度と会えないし、この気持ちを伝える気など元からなかったが、周泰を想っている間は幸せめいた幻想に浸っていられた。
 だから、服部半蔵が現れ鍵を開けた時もどこか現実感がないまま孫権はその後ろに従って牢を出た。
 だが、脱出した久しぶりの陽の光の下、同じように助け出された孫堅の姿を見たとき、孫権の意識は一気に現実にさらされた。
「権、苦労をかけたな。」
「……父上…!」
 ご無事でよかった、と思うと同時に、とてつもない罪悪感が全身を包んで切り刻む。
 あれらのことが、これで少しは報われた、などと思えるはずがない。いくら父の命を守るためだからといって、敵に媚を売るなど孫家の者にとって恥以外の何物でもない。しかもそれが、あのような形でだったなど、到底認められるものではなかった。
 当然あのことは父や兄に伝わっていないだろうし、伝わることなどあってほしくないのだが、何も知らぬ父を前にして、汚れた我が身がただただ恥ずかしい。
「どうした権、行くぞ!」
「は、はい。」
 それでも、自分たち家族を、孫呉の将兵を常に思ってくれる偉大な父に促されれば、共に戦わないわけにはいかない。
 逃げ切れるだろうか。
 救出の成功を兄に報せるため、半蔵はすでにここにはいない。父と二人、孫策軍の陣営に向けて駆けていると、脱走に気づいたらしい遠呂智兵が大げさとも思える大部隊で追ってきた。逃げる途中、小高く開けた場所から見下ろすと既に孫策軍と遠呂智軍の交戦は始まっているようで、眼下の平野は剣戟の音と砂煙につつまれている。

「そこまでよ!逃がさん!」
 坂を下り、ぐるりと防壁に囲まれた拠点に入ったところで、先の門を閉められ、二人は追ってきた兵と拠点を守る兵とに挟まれてしまった。
「くっ…!」
 …父上と兄上がいれば、孫呉は安泰。かくなる上は、父上だけでも。
 もとからの覚悟どおり、孫権が父を逃がすため命を捨てて戦おうと背を向けた時、右手から大きな爆発音がして遠呂智兵に動揺が走った。
 飛び込んでくる数人の影。
「親父!権!」
「父様!権兄様!」
「おお、策、尚香!助かったぞ!」
 そして。

「………………」

 なぜ、なぜお前はまたも来てくれるのだ。こんな、こんな私のもとに、どうして、なお。
 いや、きっとそれは、孫呉への忠義によるものなのだろう。
 わかっている。
 そしてそれで十分じゃないか。それ以上、何を求めるというのか。
 そう思っても、目の前に表れた黒い影に一瞬今までの何もかも忘れて嬉しさが込み上げてくるのを抑えきれなかった。
 拠点内の守備兵を瞬く間に蹴散らし、孫策らが咆哮を上げると、外の守備をさせられていた兵が門を開けた。
「おお、孫堅様が救出されたぞ!」
 孫堅らの救出が伝わり、遠呂智軍に残っていた孫呉の将兵たちが次々に離反し始める。
「へへっ…熱くなってきたぜ!さあ、後は妲己をぶっ飛ばしに行こうぜ!!」
「うむ、解き放たれた虎の恐ろしさ、思い知るがいい!」
 ここから孫家の反撃が始まる。
 もと来た坂を駆け上っていく父と兄を見ながら、孫権は少し遅れてその後を追った。尚香は孫堅ら救出のため囮となった旧臣たちのもとへ援護に走っている。
 自分の後ろにはいつもの静かな気配。それが、今は落ち着かない。
 途中の拠点に陣を敷いていた菫卓を破り、妲己のいる刑場への道が開けると戦闘はさらに激しさを増した。こちらの気勢も上がっているが、さすがに妲己直下の兵は精鋭揃いで、守りは堅い。
 と、聞きなれた声が孫権たちの目の前に立ち塞がった。

「おっと、どこへ行く気だ?そこの淫売さんよ。」
 あの6人だった。
「わざわざまたしても戻ってくるたぁ、そんなに俺らと離れたくないってか?ひゃはは!」
 すかさず、周泰が庇うように孫権の前に出る。
「お?…へえ、よくまぁそんなのをまだ守ろうって気になるもんだな。」
 周りを伺えば、兄も父も離れたところで戦っているようで、こちらに気付いてはいないのがせめてもの救いだった。
 だが、にやにやと男が口にした言葉にぞっとする。
「あぁ、そうか、あんたが仕込んだんだろ」
 何を、言うつもりか。
「なるほどなぁ」
 前に立たれているせいで、孫権から周泰の顔は見えない。
 微動だにしない彼が何を思っているのかわからない。
 駄目だ、知られてはいけない。こんな私の想いを、
 確かにもう、この身が奴らにどのように扱われてきたかは知られてしまっているけれど、
 こんな汚れた人間からの、おまえにとっては迷惑なだけの、一方的な思慕を、
「前はいっつも歯ぁ食いしばって耐えてるだけで、勃ちもしねえし、」
 それはお前が下手なだけだろ、と仲間内で下卑た笑いが走る。それまで喋っていた男は、
 うるせえ、お前だって突っ込むしかしてねぇじゃねえか、それに俺はあそこが締まれば他はどうでもいいんだよ、と返して、再び視線を孫権らに戻して続けた。
「それが合肥から戻ってから、急に具合がよくなりやがってよ。」
「…や、やめろ」
「この前やったらあんあん鳴くわ、慣らしもしねえのに中は溶けるわ、しかも、」
「やめろ!!それ以上言うと許さんぞ!!」
「勝手にイきやがってそん時、誰かさんの名―――」
 ざっ!と孫権が剣を振りかざすと、男は笑いを納めぬまま数歩退いた。
 目の前が真っ白になっていた。泣いていたかもしれない。
 がむしゃらに斬りつける孫権の前に、刹那、大きな闇が現れたかと思うと、
 一閃。
 噴きだした水平線が左から右へ細く走った。
「…向こうへ…」
 言われた言葉の意味が一瞬わからず、立ちすくむ。
「どいていて下さい……!!」
 振り向いた周泰の瞳は、孫権が見た事もない、凍るような殺意に満ちたものだった。
 驚く間もなく、どんっ、と肩を強く突かれた。
 …ああ…
 信じられない、絶望だった。
 あの周泰が、乱暴に自分を突き飛ばした。
 もうこちらを見ようともしない。
 怒りに任せて孫権を抱いたときさえ、どこまでも気遣いを失わなかった男なのに。
 堪え切れず孫権は駆け出した。振り向くことは出来ない。
 胸の血が冷えて、嗚咽が止めようなくこみ上げてくる。
 軽蔑したか。
 そうだろう、薄汚い男どもに辱められながら自分の名を呼ばれていたなど、吐き気がするほどの嫌悪だろう。
 忠を捧げる価値のどこにもない主だったと、気付いたろう。
 いや、あの時すでに、そう思っていたのかもしれない。
 こうして何度も助けに来てくれて、守る素振りを見せてくれたからあらぬ期待をしてしまったけれど。
 私の罪を許してくれたのではないかと。
 だけどわかっていたことじゃないか。
 もう戻れない、汚辱にまみれた私の恋心は、叶えてはいけない狂気だから。
 死にゆくだけのこの想い、今、最期に胸の内呟いて殺すから。

 

 

 愛してた。

 

 

 

   

 

 

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