my lord, my master, my only precious
  生来、他人に従うことが、大嫌いだった。
           人づきあいを疎み、人を統べることに長けているとは思えない自分が、頭目などをやっていたのは、そのためだった。
           物心も付かないうちから身を置かされていた賊の中で、自らの力を得るとすぐ、頭領を斬りその座を奪った。
           己の体が馬鹿みたいに上へと伸びたのも、見下ろされることを嫌う故かもしれぬと、そんなくだらぬことをふと思うほど、他者に縛られ、強制されることに我慢がならなかった。
 孫家に降ったのは、いいかげん江賊の生活に飽いていたところに、蒋欽が話を持ちかけてきたからだったが、やはり軍というものに組み入れられるのには多少の抵抗を感じていた。
           しばらくは苦痛に耐え、功をたててなるべく他と独立した小隊の隊長にでもなろうと考えていたが、驚いたことにすぐに君主の側近となった。
           張英を討ったことへの評価と言われたが、あるいは俺の性質を読んでいたということか。
           機に敏く磊落な彼の側近でいることは、だから思いのほか居心地がよかった。
           何しろ、指図というものをしない。
           戦場では彼自らが先陣を切って飛び出すのだから、指示など出すような状態ではない。
           せいぜいが今回の標的と、退く合図くらいで、あとはいつも「好きに暴れろや!」だ。
           しかも君主直属ということは、関わる上司がもっとも少ないということだ。
           それはなにより気が楽だった。
 だがそんな折、突如、弟君の軍へ移動となった。
           孫権というらしいその弟君自身が俺を指名したのだという。
           兄弟そろって随分と酔狂なことだ。
           だが、性格まで似ているとは限るまい。それを考えると気が重かった。
           まだ14かそこらの少年らしいが、何を思ったものか。
           世間知らずの子供にあれこれと命令されるのならば、いっそ軍を抜け賊に戻った方がましかもしれない。
           顔合わせをするからと君主の政務室に呼ばれ、俺は内心舌打ちをしていた。
           表情の乏しい自分のことだ、どうせ顔に出ない。
           それに、跪礼しているのだから、どちらにしろ顔を見られはしない。
           案の定、君主はそんな俺に気づかぬ様子で、扉から入ってきた人間に声をかけた。
           「よぉ。権、こいつが周泰だ。お前が言ってたのは、こいつでいいんだな?」
           ああ、来たか、とうんざりした気持ちで思った。
           だが。
          
        
「面を上げよ、周幼平殿」
           頭上から降ってきた、凛とした声に、思わず目を見開いた。
           心臓を、鷲掴みにされたかのようだった。
           考えるより先に、体が言葉に従って動き、その瞳を見上げた瞬間、すべてを悟った。
           俺の魂が、今までかたくなに隷従を拒んできたのは、
          この方を、
          この方だけを、上に戴くためだったのだと。
 す、と目の前に差し出された手をためらいなくとり、額にあてる。
         その方は、満足げに笑って仰った。
 「孫仲謀だ。これよりは、我が傍らにて、その武を振るうがいい。」
        
 その出会いから一年。
           呉郡を平定する戦の最中、君主は弟に宣城を守るよう言いつけ、自身は新帝城に向けて発った。
           躍進を続けているとはいえ、未だ新興の孫軍、しかもその兵力のほとんどは当然主軍が連れて行ったため、ここに残っているのは千に満たない兵のみだった。
           「私にさえ任せられると兄上が判断したのだ、さしたる要地ではないここを攻めてくる敵などいやしない」、そう孫権様は仰る。
           しかし、少し年季の入った官はみな口々に防備を増強するように進言した。
           防柵が低い、見張りが少ない、城壁の綻んだところがある、兵卒の訓練が足りていない。
           これらの言を全て孫権様は突っぱねた。
           だがそれも無理も無い。経験が足りぬのは彼のせいではない。もとより平時の内政のほうを得意とされている方だ。
           それに、忠言には若輩の彼を見くびるような響きが含まれているものが多々あった。
           あるいは、主軍に入れなかったことへの不満をぶつけている節さえある。
           それでも無碍に怒鳴りつけたり、咎めたりしないお優しい方であることをいいことに安穏としている貴様らが何を言う、と思う。
           こうして城内を廻り各隊にお声をかけられる、気遣いを兵の一人ひとりにまでなさる方なのだというのに。
           だから俺はそのときは何も言わなかった。ただ、孫権様の身にもしものことがあってはならない。ご自身の執務室に戻られたところで、俺は申し上げた。
           「…孫権様…」
           「なんだ?」
           「…どうぞ、御身の、警護を強化ください…」
           聞いて、孫権様はきっ、と俺を睨み付けられた。
           「っ。お前まで…私に、逆らうのか?」
           「…いえ…」
           俺の言葉を、ふん、と鼻で笑って孫権様が続ける。
           「…お前も、兄上の下に戻りたいのだろう。…当然だ。
             主軍に従じ、武勲を挙げる、それができる武がお前にはあるというのに、
            
          こんなところでくすぶっているなど、 
            不満に決まっている…」
           薄く笑って口早に投げる言葉の、声が僅かに震えている。
           …不安を感じておられるのか。
           猛々しい武の兄と比べられては自分自身を責め、それでも何かが出来ないかと必死になって、力が足りぬと絶望する貴方。
           だが俺は貴方の他に王たるものなどいないと信じている。
           「私の下から…去りたいか…?」
           貴方の傍のほか、何処に行くという?
           仕えるべき主は貴方ひとり。
           貴方以外の言葉など、耳に入れる気もせぬほど、ただ貴方だけが俺に命を下せるのだと伝えて差し上げたい。
           「…いいえ…」
           強く告げるとびくり、と孫権様は身を硬くした。
すっと膝を折る。
           低く、地を這うように平伏し、靴先に口付ける。
        
           少し上がって衣の裾に。
        
           そして手を採りその甲へと。
          
        
 頭を垂れたまま、目だけでかのひとの顔を見やれば、
           瞳は潤み、眦に朱を走らせ、小さな紅い唇がひそやかにわなないている。
  すぅ、と、音の無い吐息に切なさを込めて吐き出した後はしかし、堂々と。
        
 「おまえは、私のものだ。」
        
 ――――――あぁ。
           このひとが、教えてくれた。
           人にかしずく悦びを。
           求められて与えることの充実を。
           口付けは、奪うのでなくて捧げるものと知った。
           魂のすべてを唇から注ぎ入れるように。
           堂々とたたずみ俺を見おろす、
           下から見上げる角度のもっとも美しいひとよ。
           己の体を窮屈なほどに折りたたむのも、今となっては快感だった。
          
        
 その夜。
           俺は城内の見回りをしていた。
           砦の警備が不十分なのは事実だ。だが、孫権様がそのままでよいとあくまで仰るのだから、それ以上何も言うべきではない。俺が警護をすることで補えばいい。そう考えて夜警にあたった。
           城の中心、孫権様の寝所に続く奥まった回廊は、灯があるとはいえ、酷く暗い。
           ふと、暗闇にぼうと浮き立つ影が見えた。
           警戒などしない。
           見間違うはずが無い。
           薄い夜着を纏って寝所の扉に肩を寄りかからせ、俺の姿を認めると、ゆっくりとこちらに振り向かれる。
「幼平…」
 ゆらりと立つ姿は儚げなのに、
           その瞳は怜悧なほどに冴えきっていて。
           昼間のことが思い浮かび、身体が熱くて眠れぬ、と。
           かすれた声は確かに艶を帯びているのに、
           続いた言葉はあくまで冷たく。
           「お前のせいだ…。」
「来い。」
絶対君主の詔が降る。
 このひとは。普段はそんな素振りを微塵も見せぬくせに。
           柔らかな物腰、控えめな態度、過ぎるほどの気遣いに、自虐なまでの謙虚。
           けれどそのじつ、誰よりも気高き王者の傲岸を身に秘めている。
           初めて会ったときから、時折見せるその高貴が、
 
          俺を踏みにじるように縛り付けて放さない。
           唯一無二の我が主の命令に、逆らえるはずなどあるわけもなかった。
        
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