deja-vu
「孫権様!孫策様が…遠呂智様より、離反なされました!!」
	その知らせを聞いたとき、まず感じたのは衝撃。次に納得、そして、絶望だった。
	…兄上、それではこの国は…どうなると、いうのですか。
	定軍山で、父・孫堅不在の孫呉を見事に率いてみせた兄を見て思っていたのだ。
	小覇王の求心力は、江東の虎に勝るとも劣らぬ、と。
	だが、私では。
	見たことのないはずの、しかしやけに鮮明な光景が頭の中で弾けた。
	牀に力なく横たわる兄と、それにすがりつく自分の姿。
『兄上…!私には、無理です…!私にはあなたや父上のような力など無いのです…権は、権は、どうすれば…!!』
現実の記憶ではありえない。
	兄は死んでなどいない。
	父も、幽閉されているとはいえ、生きているはずで、そう信じている。
	…縁起でもない、だがそう笑って振り払うにはあまりにその光景は克明に私の魂に刻み付けられていた。
	ひとり残された孤独。
	突然全てを背負わされた重圧。
	皆の期待、失望、「こんなとき、孫堅様なら…」「孫策様なら…」の言葉。
この国を、私が?
	…私では、無理だ。
	こんな私になど、誰も付いてきてはくれない。
	現に、名だたる将の大部分が兄に従っていってしまった。
	周瑜、太史慈、呂蒙、皆、兄の人望によって孫呉に仕えるようになった者たちだ。
	そればかりか、朱治、程普、韓当といった古参の将も、家康殿や半蔵らまで。
体の芯が冷えた。足ががくがくと震えた。
	ぐらりと傾いだ私の体は、けれど床に倒れこみはせず、大きな体に支えられた。
	「……孫権様……」
	優しい腕に肩を抱かれて、力が抜けた。
	そうだ、私はもうひとつ、未だ見ぬのにひどく馴染んだ光景を知っている。
	玉座に座る私の後ろにひたりと控える暖かな視線。
	王としての張り詰めた日々の中、唯一泣くことのできた漆黒の空間。
	…現実の私は王の器などではないけれど。
私は自分を奮い立たせた。
	今、この状況を、なんとか切り抜けよう。
	力に乏しい自分でも、少しなら孫呉を保たせることが出来るだろう。
	そしてその後は…
	ふっきるように頭を揺らすと、
	気遣わしげなまなざしが私をいたわるように包んだ。
関ヶ原では、尚香と友人の稲姫が兄に降った。
	その後、義姉とともに董襲、周魴、潘璋といった将やその配下兵も孫策軍に降伏した。
	次は合肥。
	前田慶次、曹仁ら他国の名将を借り出したにもかかわらず、我が軍は敗勢にあった。
	やはり、私では無理なのだ。
	私は、父や兄と違って自身の武も、戦の才も無かった。昔からわかっていたし、こうして今また思い知らされた。
	まったく諦めていたわけじゃない。
	一応は、頑張ってみようとしたのだ。
	全力をもって孫呉を率い、兄の軍を打ち破ろうとしたのだ。
	けれど。
	初めて本気で対峙した兄は、やはり強く、大きな存在だった。
	私には、越えられぬ壁だった。
	幼き日も、長じてからも、そしてこうして敵対しても、いつも私は兄の背を追ってばかりだ。
	そして結局、追いつかぬまま終わるのだ。
	自嘲の笑みが浮かぶ。
	この地で、目の前で、橋が落とされる光景を、見たことがあるような気がするのももう慣れてしまった。
	夢か、気の迷いか、何か別の世の記憶なのか。
	私がここで敗れるのはすでに決まっていたことのように思えた。
そして攻め込まれた本陣で、2度目の兄との対決に、やはり勝つことはできなかった。
	「私の負けだ。斬るがいい…」
	自分を見下ろす兄の顔は見られなかった。
	こんなにも不甲斐ない弟で申し訳なかった。
	だがこれで全てが終わる。
	死を覚悟して心に浮かんだのは、父でも、兄でも、妹でもなく…
突然、びゅう、と風が駆けぬけた。
	蹄の音と地響きが、なぜか遅れて意識に届いた。
	「今です…」
	はっと顔を上げると、焦がれたその姿が目の前にあった。
	「っ――――」
	馬に飛び乗る。
	最後に会えたことが、どうしようもなく嬉しくて切なかった。
	一瞬だけ振り返る。
	黒い巨躯が刀を納め、膝をついたのが見えた。
…兄上。周泰を、お返しします―――――
かつて、兄の側近だった彼を自分の配下にとねだったことを思い出す。
	思えば、あの頃からずっと、私が望んでいたのはただ…
遠呂智軍に戻った私は、早速捕らえられ、度重なる敗戦の責によって処刑されることになった。
	予想通りだから驚きはしなかった。
	兄に将兵を託し、死ぬことだけが孫呉のために私に出来る精一杯のことだった。
	刑場にそびえ立つ磔のための木柱を眺め、覚悟を決めたこのときに、浮かぶのはやはりあの顔だった。
目を閉じ、ふと思う。
	思うだけだ、願いはしない。
	だから、許してほしい。
もし、彼が、兄に降ることを拒んだのなら。
	私以外に仕えるつもりはないと言ってくれたなら。
	そしてもし、兄が、彼を斬ったなら。
二人一緒に地獄に堕ちれるだろうか。
わかっている。
	兄が、あれほどの将を斬るはずが無い。
	あの時だって私を斬らずにおこうとしていたくらいだ。
	そして彼は孫呉に欠かせぬ優秀な人材だ。
	これからもその志のもと、存分にその武を振るって欲しい。
	そう、心から願っている。
だけど…
涙がひと筋、ほろりと零れた。
将兵は皆、孫呉のもの。
	孫呉の旗を持つ者の下に集わねば。
…ああ、だけど、
 
 
周泰。
おまえだけは、私ひとりのものにしたかった。