甜
名など、記号に過ぎぬと思っていた。
寒門の生まれである。そもそも、生家の記憶もほとんど無い。
        気づけば姓があり、名があり、字があった。それで用が足りた。
それでも、自分の名ならば、呼ばれ続けてきたものだ、愛着がわかないでもない。
        しかし他人のものともなればそれは便宜以外のなにものでもない。
        大概、他者に無頓着であった。
        意図したものを差すことができれば、それが名だろうと字だろうと番号だろうとかまわなかった。
        だいたい、音のならびに必然性など無いのだ。
        物に、人に、それをあらわす音をあて、意味を持たせているに過ぎない。
なのに。
「…孫権様」
何故、こうも甘い。
 喉に熱を与えながらせりあがってきたその音は、舌の上にえもいわれぬ甘みをこぼしながら跳ね回り、
        舌先をそっとくすぐってゆく。
        そうして空へと飛び出した音は、他でもない、自分自身の声だというのに、ひどく特別な響きを持って
        耳から再び己の中に入り、鼓膜を切なく震わせるのだ。
        …これはまるで、自慰のようだ。
        自らの声で、感じてしまうなど。
彼の人が自分を呼ぶのになら、わからないでもない。
        心地よい高さを含んだその声が、この心を揺らすのは、至極当然のことだろう。
        親しさをこめる意味を持つ字ならば、その気持ちを汲み取れてより喜ばしく感じるのも自然なこと。
けれど。
彼の名はそれ自身が極上の美酒のように、馥郁たる甘味をもたらすのだ。
「…孫権様」
        そのひとの名をもう一度呼んで、周泰は口の端を僅かに引き上げた。
*****
「少し休憩するから、おまえも付き合え。」
        執務室の外に立つ護衛役に声をかけ、孫権は手ずから茶を入れはじめた。
        日に一度か二度、孫権はこうして周泰との会話を楽しみながら執務の疲れを紛らす。
        しかしこの日は、周泰が部屋の中に入り扉が閉まったのを確認するや、首に腕を回し口付けをねだった。
        …そういうことも、しばしばあった。
        「ん…」
        始め触れるだけだったそれは、次第に熱を帯びて深まるのが常だった。
「……どうかなされましたか」
        ひとしきり接吻を交わしたあと、孫権がじっと口元を見つめているのに気がついて、周泰は声をかけた。
        「いや、おまえは、私の見てないところでなにか菓子でも食っておるのか?」
        咎めるような口調ではない。あどけない表情をして小首をかしげているさまは、拗ねているわけでもなさそうだったので、
        「…いえ、そのようなことは」
        質問の意図をはかりかねながらも、短く答えた。
        すると、孫権ははにかむように笑って言った。
        「そうか。ならば、何故なんだろうな。お前と口づけすると、いつも甘さを感じるのは」
…孫権様。
俺の、唇が甘いというのなら、それは、
あなたの名を呼んだからだ。