THANATOS/EROS

 

 孫権自らも出陣したその戦は、予想外にかなりの苦戦を強いられた。
 ありふれた討伐戦で、戦力もこちらが勝っていたが、敵兵の個々の能力が非常に高かった。
「…孫権様…少々、お下がりを…」
 孫権に向かって飛んでくる矢をことごとく跳ね返しながら、周泰が言う。
「…わかった。いつもすまない、周泰」
 総大将である孫権を狙ってくる多くの歩兵から確実に孫権を守るため、馬を下りて戦っていた周泰は、ちらりと馬上の孫権を見上げると、刀を一振り横に薙いだ。長い刀身によるそれだけで、囲みが開け、退路が出来る。
 そちらに下がった孫権は、それでもばらばらといた敵兵を切り散らしながら、しばらく行ったところで留まり、来た方向を振り返った。ちょうどそこには周泰の馬がいる。これから退くにしろ、また進軍するにしろ、この状況では周泰と共に進む方がよかろうから、ここで待つことにしたのだ。

 やがて周囲の兵をあらかた片付けただろう周泰がこちらに走ってくる。すると突然、その前に一人の敵兵が立ちふさがった。
 周泰と孫権の間に現れたその兵は、孫権の方に向かってこようとしたが、当然周泰がそれを許さない。
 鞘走らせた周泰の剣先が男の脇を掠める、それをすんでの処でかわすと、男は続いた第二撃を自分の得物で受け止めた。
 かなりの手練のようだった。
 山越の将の名など詳しくは知らぬし、それが将なのか兵なのかすらわからなかったが、少なくとも腕は孫呉の武将にも匹敵する。
 頭上で、胸の高さで、足元で、互いの得物同士がぶつかり合い、火花と硬質の音とを散らす。しばらく打ち合っていた二人だったが、ひときわ大きな音を立てた後、ひらりと双方が飛び退き距離をとった。
 にやりと男が口元を上げる。相手の得物は戟だった。周泰の刀は他の剣に比べて非常に長いが、それでもさすがに向こうの方が長さがある。間合いを広げられるとやや不利だった。
「…周泰!」
 しかし周泰はいつもどおり動ぜず、刀を構えなおした。
 前後に足を開くと、少し腰を落とし、左腕を前に突き出しながら、ゆっくりと右腕を肩の高さで引いてゆく。
 それは、孫権にとっては見慣れぬ構えだった。振り始めの一撃を居合いで行う周泰は、普段は刀身を鞘に収めた形で構える。
  突きか…!
  一度に多くの敵を相手とする乱戦では、当たる範囲が少なく隙の大きいこの技を使うことはない。敵武将との一騎打ちなどでは用いたこともあるのかもしれないが、そのようなことは大抵周泰が前線に攻め上がっているときに起こるため、孫権がそれを見たことはなかったのだ。
 右手の刀を限界まで引いた周泰は、そこで狙いを定めて一旦動きを止めた。
 静かだが緊迫した空気の中、孫権の目は、機会をうかがっているのかこちらも動こうとはしない敵の背中の横を通り過ぎ、向こう側の周泰の姿に釘付けになった。
 思わず、息を飲む。
 野生の獣のような獰猛を全身から立ち昇らせ、す、と細められた漆黒の目は、ぎらりと冷たく燃えるような殺気を込めて敵を射抜く。
  それだけで息の根を止められそうな程の視線。
  剣戟の音と怒号がさんざめく戦場でそこだけが切り取られた別の空間のようで、その中でぴたりと真っ直ぐにただ一人を見据える瞳。

 ぞわり、と背が粟立った。

 その瞬間、ひっ、と音なき音がして、はっと目を瞠ると、喉元を串刺しにされだらりと腕を落として「物」になりさがった男の姿が見えた。
 まさに、刹那の出来事。
 長い腕と刀身、さらに、踏み込んだ足に重心を移して上半身ごと前に突き出した突きの形。広い間合いをものともせず貫き通された剣技は、しかも神速をもってなされ、反撃の余地すらなかった。
 す、と、もと来た軌道を寸分狂わず辿って刀が引かれ、どさりと骸が地に落ちたときにはもう周泰は剣先の血を振り落として鞘に収めていた。
「…本陣へお戻りを…」
 俺もすぐ参ります、と、一瞬前の殺気が幻かと思えるほど静かにこちらを見上げた黒い影に、
「あ、ああ。」
 とだけ、ようやくの思いでこたえて、孫権は馬の腹を蹴った。

 

 引き上げた本陣で、一通りの軍議を終わらせたのち、自分の幕舎で孫権は一人物思いに耽っていた。
 昼間、戦場で周泰が見せたあの殺気。
 周泰の戦いぶりはこれまでも幾度となく見てきた。孫権の護衛として近くで戦うことはむしろ常態だ。
 だが、普段は複数を相手に縦横に振るうように刀を操る周泰が、あのように一点に狙いを定めて突きをする様を、それも向かい側から見たのは初めてだった。
 その光景を思い出しながら自らの肩を抱いてみれば、いまだ僅かに震えが続いていた。
 甦る衝動。
 …あのとき、相手の敵兵に感じたのは、紛れもなく。

 激烈な、嫉妬だった。

 どうして、あそこにいるのが私ではないのだ、と。
 吐き気すら込み上げた。
 体内が、焼き焦がされているようだった。
「…はは。…愚かだな」
 自分でも、馬鹿なことを、とは思う。だが、あのとき確かに「うらやましい」と思ったのだ。
 周泰に、あれだけの強さで、あれほどの熱さで、ただ一人と見つめられた。
 しかも羨んだのはそれだけではない。
 研ぎ澄まされた切っ先のような殺気で、燃えるような闘志で、もたらされる剣撃、それに伴う傷、死。
 決して自分には向けられることのないそれらが、うらやましくてならなかった。
 無論、それゆえに孫権はここに在り、そして孫権の嫉妬の相手はいま戦場の地面の上冷たくなっているのだが。
「…本当に、愚かだ。」
 それでも一度感じてしまった渇望は容易には胸から消えず、全身が奇妙な熱に包まれる。
 ああ、あの男に殺される、それはどんなに甘美な瞬間なのだろう。
 愚かな望みが、どうしても、忘れられない。
 今もこの幕舎の外、たたずむ男を思う。いくら君主の幕舎とはいえ、不寝番を将軍職にあるものが務めるのはあまりあることではないが、今日は孫権が是非にと命じ、孫権の周泰に対する信頼を知っている臣たちは特にそれを気に留めることはしなかった。
「……」
 おもむろに孫権は立ち上がると、大股で歩を進め、出入り口に垂れた布を勢いよく捲った。
 本陣の奥、他から少し離れたところにあるこの幕舎は静けさに包まれ、しかしその静寂に溶け込むようにその男は立っていた。
「……何か……」
 振り返り、周泰が問う。
「入れ。」
「……しかし…」
 ためらう言葉を無視して、孫権は周泰の腕を掴んで中へと引き入れると、さらに仕切り布を越え、牀台が置いてある部分へ連れて行った。
「…孫権様……?」
 いぶかしげにしながらも、孫権を見つめる瞳は常のように穏やかで優しい。いつもは安心と心地よさをもたらすそれが、今日はひどく不満に感じられた。昼の、あの猛々しい気配が欲しくてたまらなかった。
 入り口近くに控えようとするのを制し、牀台の脇に立たせて対面する。
 改めて至近距離で見上げれば、抑えられてはいるが確かに、周泰の身に残る獣気が感じられる。護衛のため昼からずっと解かずにいる鎧から、ふわりと血の匂いがした。
 それに満足した孫権は、牀台に一度目をやり、それから周泰を見つめて言った。

「私の相手をせよ。」

 きっぱりと言い放たれた孫権の言葉に、しかし周泰は少し眉をひそめて考え込むようにした後、ゆっくりと口を開いた。
「……それは…他の者に…」
「なッ!」
 驚きと怒りで、とっさに叫んでしまった孫権を気にせず、周泰は続ける。
「…俺などより…もっと若く…筋肉が少なく体が柔らかく…そして受け入れることに慣れている者の方が…」
 慣れていない者相手だと、抱く方も痛みを感じますゆえ…と言う周泰に、孫権は力を抜いて、ふ、とため息をついた。
「違うのだ、周泰。」
 ゆるく頭を横に振り、孫権は言った。
 軍規で、侵攻先の村民の強姦とともに自軍内での強姦も禁じているが、それでも大抵、欲を受け止める側になるのは軍に入って日の浅い兵卒などが多い。下っ端の、同じ階級同士でもそうだし、あるいは上官がはじめから閨での相手をさせることも踏まえて若い部下を傍においたりもするわけで、下位のものが上官を組み敷くなどということはまずない。
 だから周泰も、孫権がそのような形の奉仕を求めているものと思ったのだろう。
 だが、違う。
 微かに笑みを浮かべ、孫権は周泰に腕を回すと昂りを伝えるように体を寄せた。
 戦のときというのは、性欲が高まる。それゆえ陣中で欲を解放しあうことがよく行われることになるのだ。いくら歴戦の将である周泰であっても、いまだ多少の高揚を覚えることはあるだろう。しかも今日は、傷は負わなかったとはいえかなり厳しい状況があった。戦時に性欲が増すのは気が昂るからだけではない。生命の危険に瀕して、本能が子孫を残すためそれを求めるのだ。
 ならば、と孫権は思う。
 いつも控えめな態度を崩さないこの男の、生々しい欲望に触れることができるだろうか。
 依然表情も動かさず、静かにされるがままになっている周泰の、その部分は質量を変えてはいなかったが、おそらくは常より高い、熱を帯びていた。
 自分は君主で、誰よりも臣下としての慎みを深く持つ周泰が、自分に対して欲を向けるのはためらうだろうし、そもそも興味がない同性を、抱けといって抱けるものではないが、体がそれを求めているだろうこの状況なら、可能かもしれないと思った。

「…お前が、私に、欲情できるならば、…………抱いてくれ。」

 たしかに、今、孫権の下腹で起ち上がっているものもまた、誰かの中に入り込んで精を放ちたいと主張しているのだろうが。
 挿入と射精を求めるそうした体の思惑とはうらはらに、心が、受け入れることの方を望んでいるのは、私の、この男に対する恋情のせいなのだろう。
 …でもいまは、そんなことはいいのだ。
 焦がれる想いは真実で、胸の内切なさを撒き散らし続けてはいるけれど。
 いまはただ、何も考えず抱かれたい。
 動物の生存本能であってもいい。単なる生理的な反応でもいいから、周泰の体が誰かを犯したがっているのなら、その誰かに私がなれればそれでいい。
 ぐい、と一層強く股間を押し付け、まっすぐに瞳を見つめて続ける。

「頼む。」

 その周泰の目が僅かに見開かれたのを見たと思った次の瞬間、孫権の体は牀台の上に倒れていた。
「…………………は…」
  いつもよりさらに低く押し殺した声が了解の意を告げるのを耳の後ろで聞いた。
 そのまま周泰の唇は首筋をつたい、鎖骨を滑って胸に至った。
「ああっ」
 ぞくぞくと快感が体の奥からわきあがってきて、孫権はたまらず声を上げた。
 つい先ほどまで剣を握っていた、周泰のざらざらとした掌が、裾を割り裂いて太ももを直接に撫でる。
 反射的に逃げる孫権の腰を強引なほどにしっかりと押さえつけ、その部分を握りこんでずる、と擦りあげられた。
「しゅ、…っ」
 性急な愛撫だった。
 だがそれがたまらなく感じる。
 ばさりと衣を取り払われ、露わになったものを、今度は口に含まれる。
 周泰の口内は、興奮のためか随分と乾いていたが、それでもじわりと舌から染み出してくる唾液と、孫権自身から零れる先走りとですぐにぐちゅぐちゅと濡れた音を立てるようになった。
「っは、…ぅうっ…っ」
 するどい射精感がこみ上げてくるのを、腹に力を入れて耐える。
 違う、そうではない、そうじゃなくて、周泰の熱に焼かれたいのだ。周泰の得物で貫いて欲しいのだ。
 そう不満に思った孫権が文句をつけようとした瞬間、後孔に周泰の指が触れて、息を呑んだ。
 円を描くように数度撫でてからぐっと押される。足の付け根を伝って流れてきた露に助けられ、少しだけ指先が中に入り込んだが、周泰はそのまま押し込もうとはせず、体を一度離した。
「…何か…油のようなものは…」
 たずねられ、少し頭を巡らす。牀台の傍に置かれた棚の中に、髪を纏める時に使う香油があると告げると、「…失礼…」とことわってから周泰が引き出しを開け、小さな瓶に入ったそれを手に取った。
 再び口淫が始められ、それと同時に油が絡んだ指が後孔にずるりと差し入れられる。
 長く、節のたった周泰の指が何度も往復され、やがて本数が増えていくのにただ翻弄される。いいとか悪いとかではない。まだそんな余裕はなかった。ただ、自分の体が受け入れる準備をしていくのを、単純に嬉しいと思った。
 それでも少しずつ疼きが甘い色を帯びてきた頃、中を探っていたものがふっと引き抜かれたかと思うと、熱い塊が入り口に押し当てられた。
 これから何が起きるのか頭が理解するより早く、胸が期待に跳ねる。
 と、一気に奥まで貫かれた。
「っあああっ―――!」
 先ほどから知らず目をつぶっていたから、はっきりと周泰のそれを見てはいなかったが、孫権の体内に入り込んできたものは圧倒的に太く、長く、あまりに雄雄しかった。
「っあっ、はっ、うぁっ」
 ためらいなく抜き差しを始めた周泰の動きにあわせて声が零れる。
 生理的に涙が溢れ視界が滲んだが、全身を包むのはひたすらに悦びだった。
 繋がった部分の、普通だったら耐え切れないかもしれないほどの激痛も、今は興奮を誘う材料でしかない。
 入り口が内壁が擦り切れるように痛むたび、体の奥底が熱く滾る。
 この痛みは、たしかに生きている証だ。
 そしてこの男が生きてここにいる証だ。
 戦のただなかの、この場所での交わりに、甘ったるい情緒など不要だった。ただ互い獣に戻り、本能のままに交わり合うだけだ。それでいい。
 強く瞬いて涙を押し出し、少しだけ明瞭になった視界で前を見れば、ぎらぎらと黒光りする視線とぶつかる。
 …ああまさに、刃そのものだな。
 まだ戦場での殺気を色濃く残した周泰の目は、鋭く孫権の胸に突き刺さる。
 そうだ、もっとその目で私を貫いてくれ。
 つい先ほど互いが生きていることの実感を強く追い求めたけれど。
 …今、は。
 昼間の渇望が再びよみがえり駆け巡る。
 押し入られる部分から身体が引き裂かれそうな感覚に、自然と零れる喘ぎとも苦悶ともつかぬ声と共に、欲望がじゅうじゅうと孫権の喉を焼いた。
 周泰の、武人らしく鍛え上げられた大きな身体が孫権を組み敷き、腰を叩きつけてくるのに、気が遠くなるほどの恍惚に陥る。
 遠慮は要らない。どれだけ傷ついてもかまわない。
 もっと、もっと強く、私を引きちぎるように喰らい尽くせ。
 敵を屠るように、私に向けて獣の殺意をぶつけてみせろ。
 無論、死にたいわけではない。
 一瞬の気の迷いが命取りとなる戦場で、少しでもそんなことを望んではいけない。
 君主として、それはあってはならない。
 ただ……この男に殺されたい。
 あの目で射抜き、燃える闘志で斬り裂き、鋭い視線と滾る強靭な得物で突き殺して欲しい。
 敵刃から庇って私の身体にまわされるその逞しい腕で骨が折れるほどに抱き締めて絞め殺して欲しい。
 私のために命を投げ出すこの男に、守られながら殺されたい。
 生と死の入り混じり交錯する戦場の空気にあてられて高揚した心は、矛盾する想いを渾然と胸に沸き起こさせる。
 それが、ひかぬ激痛の一方で同時に強烈な快感を感じているその部分とこの行為に似ていた。
「ぅあっ、しゅう、た、ぃあっ、名を…っ、名を呼んでくれ…!」
 限界を感じ取った孫権が周泰の両腕にそれぞれ五本ずつ十本の爪を立て、ぎりぎりと掻き毟りながら言えば、
「……………孫権、様……」
 低く掠れた声が吐息と共に薄い唇から漏らされ、それを聞いた瞬間、孫権は絶頂を迎えた。
「――――――っあぁぁっ!!」
「…………っ」
 射精と同時に絞るように締め付けを増した孫権の後孔に、最奥まで自身を押し込んでいた周泰は、一瞬片目を顰めて腰を引こうとした。そこに、孫権の両足が絡みつく。
 許可を得たのだ、と理解したのか否か、瞬間的に周泰は孫権の中に精を放っていた。
 熱い迸りが身の内に注がれるのを感じて、孫権は体を震わせた。
 そうだ、私の中にすべて出してくれ。
 女とは違い、いくら孫権がそれを受け入れても新たな生になることはないけれど。
 お前の命を、私に。
 それは確かに周泰の生の一部なのだと、孫権は自分の腹の奥を満たした熱をたまらなく愛しく思った。

 

 死と同じだけの絶対的な強烈をもって与えられる生。
 どんな戦場であっても、この男がいる限り、私が死ぬことはないだろう。
 瞳に剣呑な光を宿したまま、それでも静かに身体を引いていく周泰に、孫権は満足げに心からの笑みを投げかけた。

 

 共に、生を分かち合い、生き抜く。
 

 いまは、それだけでいい。

 

 

 

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