孫権が走り去った気配を背で確認して、周泰は刃を翻した。
 右から左へ。
 鈍い反応しか返せない目の前の男らに容赦なく太刀を浴びせ続ける。
 踏み込んで左下から右上へ、端にいた鬼の頭頂から縦に真っ二つに、次の鬼の喉元を突いてぐり、と回転させ、左の鬼は顎下から上に向かって顔を貫き、隣は腹を割いて最後に残った男に向き直る。
「な…!」
 恐怖に歪む顔を見ながら、既に事切れて地に落ちた者どもに刃を突き立てる。
 何度も。何度も、突き刺し、それだけでは飽き足らず、切り刻み、踏みにじり、千切れた肉片を蹴り飛ばす。
「ひぃぃっ」
 言葉にならない悲鳴を上げているのは先ほど喋っていた鬼。
 一度刀身を鞘に収め、引き抜く切っ先で四肢の腱を断った。
 …このような姿を、孫権に見せるわけにはいかなかった。
 さっきまでかろうじて僅かに残っていた理性で、孫権を遠ざけた。
 はじめ、この男らの顔を見てから、周泰からは急速に理性が失われていた。
 実際、先程男らの話していたことなど、ほとんど耳に入っていなかった。
 胸に渦巻くのは、厭らしく嗤いながら自慢げに孫権を犯したことを語っているらしい男への暗い憎悪のみ。
 身動きが出来なくなって地べたで藻掻く男に、ゆっくりと歩み寄る。
 一息などでは殺さない。
 嬲るように恐怖を刻み付けて、早く殺してくれと懇願するほどの苦痛を与えてやる。
 口を裂き、目玉を抉り、鼻を削ぎ落とし肋を砕いて内臓を引き出し局部を潰して髪という髪を引き抜いてやる。
 己の犯した罪を思い知るがいい。
 だが、今の周泰に、罰を与えているという意識は無かったかもしれない。
 ただ、何も考えられずにひたすらに目の前の男を苛んだ。
 拷問を楽しむような、こんな感情は、賊をやっていたときさえ、感じたことは無かった。
 至高の存在への恋慕が、残虐な執着を生み出したのは、だがあなたのせいではない。
 もとより狂ったこの想い、もう俺は人ではないのかも知れぬ。目の前の男と同じ…、鬼、か。
 ふ、と周泰の胸に正気が戻った。かの人を思い浮かべた瞬間に押し寄せてくる溢れるような愛しさは、同時に罪深き自分自身を責め立てる。
 …あのひとを壊してしまわないうちに、一刻も早く、終わらせねばならない。
 男に止めをくれてやりながら、周泰は天を仰いだ。

 

 

 君主の救出戦を終え、ようやく一つとなった孫呉に迎えられた孫権は、息つく間もなく次の戦に向けた準備に明け暮れた。昼は軍の各所を見て回り、夜には再会した家族や仲間、新たに加わった将を訪れ、連日語り合う。それは、今までの誤解を埋めるためでもあったが、何よりも孫権は一人になりたくなかった。
 夜が、怖い。
 というよりも、空白の時間が全て怖かった。
 そんな時は、誰かがそばにいてくれれば気を紛らわすことができる。誰でもいい。…かつて、それをもっとも望んだただ一人を除いて。
 だから、今日のような静かな夜半は、孫権が最も恐れていたものだった。
 居室に一人でいるとどうしてもあの記憶が全身に忍び寄る。
 それが、恐怖だけならまだいい。
 だが、あのたった一夜だけの行為はそれなのに凌辱の記憶を鮮やかなほどに塗り替え、恐怖よりも厄介なものを孫権にもたらした。
 自然と反応してしまう身体と、それに引きずられて募る恋慕。
 そして、繰り返し思い知る絶望。
 あの時、全てが終わったというのに、この体は何を期待しているというのだ。
 小牧長久手から孫呉の陣営に戻って以来、孫権はずっと周泰を避け続けてきた。後ろめたさもあったが、それがお互いの為と思ったからだ。周泰は自分の顔など見たくもないだろうし、自分も、もう想いもなにもかも全て忘れてしまわなければならない。
 けれど一度知ってしまった熱は、耐えようもなく情欲を引き起こし、体の奥底から燃え広がって下腹と後孔を疼かせた。
 あきらめきれない。
 だってこんなに、どうしようもなく恋しいのだ。
 いっそ告げてしまおうか。もう知られてしまったのなら、これ以上何を怯えることがあろう。
 愛していたと、声の限りに叫べばいい。
 ……いや、だめだ。
 小牧長久手での、周泰の顔が脳裏に浮かぶ。
 底の見えない、昏く冷え切った瞳。
 かつての穏やかなものとは全く違う、感情の一切が切り取られたかのような無表情。
 言える、はずなどないのだ。私に、その資格などない。
 ああならばいっそ、抱いてくれと言ってしまおうか。
 怒りまかせにでも一度は抱けたこの身を、もう一度貪ってくれたらいい。どれほど軽蔑されようと、男無しでは眠れぬこの体をせめて慰みものにしてくれ、とでも縋ろうか。
 だがそれも、到底応えてもらえるとは思えなかった。
 周泰は私のもとを去っていくだろう。
 そう考えると全身が切り刻まれるように痛い。
 仕方がないことだ。誰も、男に、それも人間ですらない化け物に犯されて腰を振るような浅ましい主に仕えたいなどと思えるはずがない。
 ぐるぐると行ったり来たりの思考に、ひとり、ただただ涙を流す孫権の耳に、かたりと戸の鳴る音が届いた。
 はっとする。あわてて涙を拭い、しばらく待つと、もう一度、控え目に戸が叩かれた。
「……誰だ」
「……周幼平です…。…孫権様に、お話が……」
「っ。そ、そうか。…入れ。」
 声が震えた。
 扉が開き、黒い巨躯が静かに室内に入ってくる。それを見ながら、孫権は椅子の上で身を固くしていることしかできなかった。
「…………」
 沈黙だけが、二人の頬を撫でて扉の隙間から流れていく。ぱたりと扉の閉じた音さえ、質量のある空気の中に吸い込まれていった。
 何も言えない。そして、何も聞きたくなかった。
 数歩の距離を音もなく近づくと、周泰は孫権の眼前に跪いた。
 左腰の弧刀を外すと、す、と一度柄を孫権の方に掲げてから、そのまま床に置く。それを見た孫権の、息を詰めるひゅっという音が周泰の頭上で響いた。

 

 

「……申し訳ございません……」

 

 

 一瞬、何を言っているのかわからなかった。

 

「…あなたを…守れなかった…」

 緊張と混乱で身動きの出来ない孫権にかまわず、周泰は目を伏せたまま訥々と続ける。
 それは、謝罪というよりも、懺悔のようだった。
「申し訳、ございません…」
 合肥後、遠呂智軍に戻ることを止められなかったことも、
 そもそも陵辱を受けていたことに気付けずにいたことも、
 さらに、それを知った時にしてしまったあの行為も。
「…どうか、何なりと、ご処分を……」
 本当は、断罪の声と視線を、顔を上げて受け止めるのが、自分に対するまず第一の罰だろうとは思った。その覚悟はしてきたつもりであった。
 しかし、扉越しに聞いた凍りついた声と、一瞬だけ見えた引き攣れた孫権の表情はあまりにも痛ましく、周泰はただひれ伏すしかできなかった。
 取り返しのつかないことなのだ。
 せめて、その手でこの首を断ち切ることで、全てを終わらせてくれればと思った。
「……しかも…ずっと…あなたを、そういう目で…」
 ただ怒りに任せただけのひとときの迷いではない。劣情を、向けてはならない人に向け続けてきた。
「俺は…あの鬼どもと…何も変わらぬ…」
 犯してやりたいと思っていた。その上等の衣を引き裂いて、肌を味わって、己を押し込み、思うままに揺さぶりたいと、
 欲にまみれた汚い視線を浴びせ続けてきたことの、どこが違おう。
 『慕っていた』なんて言えやしない。
 主従や敬慕をはるかに超えて足元に踏みにじるまでに、欲望が膨らみ肥えた。

「…本当に、そうなのか…?」

 ぽつり、と孫権の口から零れた言葉に、周泰は息を呑んだ。
「あいつらと…同じだと……私を、欲の捌け口と…そう、思っているのか…?」
 うつむいた顔は、どんな表情をしているかわからない。
 だが、細く震えた声は、今にも泣きそうな、懇願するような響きだった。
「…私に求めるのは…体だけだと…そう…」
 咄嗟に、周泰は低く叫んだ。
「…いいえ…!」
 違う。
 貪欲な俺は、あなたの心をも欲しがっていた。
 すべてが欲しかった。
 浅ましい想い、それはむしろ肉欲よりも凶悪だった。
 体だけが欲しいのだったら、孫権が誰に抱かれようとかまわない。それこそいっそのこと自分も加わったっていい。
 それ以上を望んでいたからこそ、あのとき憎悪に狂ったのだ。
 燃えるような理不尽な嫉妬を抑え切れずにぶつけてしまったのだ。
 ぼろぼろになっていた孫権を慰めることもせず、追い討ちをかけるようにその身を責めた。
 後悔はした。何度も。ずっと。
 もっとも大切な人を、この手で痛めつけてしまった、悔やんでも悔やみきれぬ最低の罪。
 だが同時にその後悔は。
 あの時、激情に身を任せることなく、あなたを、ただいたわることが出来ていたら、
 傷ついたあなたの心につけいることが出来ただろうか、という卑怯でありさえした。
 どこまでも救いようのないこの愚かさよ。
 こんな、ドス黒い欲望を、まさかそれでもあなたは求めてくれるのか。
 愛などという言葉のとても似つかわしくない醜い感情を、自分に向けてほしいと願ってくれるのだろうか。
「…俺は…あなたのすべてを求め…身の程も弁えず…」
「…いいのだ」
 震える声で孫権が言う。
 この汚れた身、しかも陵辱されながらおまえの顔を思い浮かべて愉悦に浸った私。
 何人もの男に犯され、淫らを掘り起こされて、あるいはそれならばおまえを惑わせられる体になったろうか、と、いつしか心のどこかで嬉しくさえ思っていた。
 愛されるわけはないけれど、もし生き延びて再び会えたならその時はきっと、
 もう一度とこの体で誘い込み、そしていつか心をも狂わせられれば、と。
 そのくせ本当は、愛されたくてたまらなかった。
 さきほどだって「体だけを求めるのなら、それでもいい」と言ってもよかったのに、無様にも縋るような言葉になってしまった。
 どこまで強欲で身勝手なことだろう。
 そんな私を、まだ欲しいと思ってくれるのか。
 私はもう、昔のような、お前をまっすぐに慕う無垢な子供でも、誇り高き清廉な主君でもないというのに。
 こうも胸を貫く熱いまなざしをくれるのか。

 

「おまえが、私を望んでくれるのならば、」

 


  どうせ罪に穢れた二人、どこまでも、あの、誓いのように、

 

 

「共に地獄に堕ちよう」

 

 

 

 じり、と灯が消えたのと同時に、闇色の腕が奪い去るように孫権を包んで、一つになった影が夜に溶けて消えた。

 

 

 

 後に残るは、衣擦れの音。


 そして、互いの名を呼ぶ切なる声の響きだけ。

 

 

 

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