――――――守りたい。
 一度撤退した周泰は、ひとり、戦場から少し離れた迂回路を駆ける馬上にいた。
 目指しているのは無論、孫権のいる本陣。
 圧倒的な孫策軍の勢いに、抑えきれぬと判断した周泰は配下にそれぞれの判断で戦うよう指示していた。それはつまり、最終的には孫策軍に降れという指示である。
 この戦いのさらに前、関ヶ原の交戦の際すでに孫権はそれとはっきりは言わずしかし全軍に伝えていた。
 『死力を尽くして戦え、だが最後には降れ。』
 それが孫権軍の暗黙の了解となっていた。
 その配下への指図と同時に、本陣に向け伝令を送ってから、自分はただ一人戦い抜く覚悟で蘭丸らと対峙したのだった。
 時間稼ぎだ。しかも蘭丸一人ならまだしも、孫策が、さらに呂蒙などの名だたる勇将が向かってきている。もともと完全に勝てるつもりで刃を交えたわけではなかったが、あまり長く抑えられなかった己の不甲斐無さに舌打ちする。
 戦場で心を乱すのが命取りだということは分かり切っていた。それに、そもそも周泰は過ぎたことに思い悩んで沈むような性質ではなかったはずだ。
 それでも。
 灰色の雲の切れ間から、抜けるような空の青が胸に刺さる。
 それと同じいろが、滲み、歪み、曇って濡れるのをあの夜散々目に焼き付けた。それも、特に後半は全て己のせいだ。
 申し訳無かった。兄が離反し、他の者たちも次々と去っていく中で、人質の命と仲間たちの想いとの間で板挟みになり神経をすり減らしていただろう孫権が、自分に付いてきてほしい、と、それは紛れもなく尊い信頼の証であったろうに。
 それを、あんな最悪の形で裏切ってしまうとは。
 いつかはこのようなことが起きるのではないかという恐れはずっとあった。恋焦がれる想い、狂おしい欲望が、いつか溢れ出てあなたを傷つけてしまうのではと。
 だからそれを深く押し込め、ひたすらに自分を律し、ただ側で守り抜きたいと願っていたのに。
 どれほど傷ついたろう。絶望しただろう。信じていた側近に無理やり犯された、その時の孫権の気持ちは周泰の想像を絶する。
 怒ってくれていればいい、と思う。貴様も奴らと同類かと軽蔑し、激怒のうちに断罪してくれればいい。ふざけるな、と、決して許さぬと、その怒りで周泰を、男どもを、遠呂智軍を焼き尽くせば、あの強く気高い心は、いつか忌まわしい記憶も乗り越えるだろう。
 だが。
 あの時の孫権の様子を思い出す。
 孫権は、抵抗らしい抵抗をしなかった。
 周泰の目の前で男どもに嬲られていた時は、瞳を悲嘆に歪めながらも、きつく歯を食いしばり、人質の命を繋ぎとめるため必死に耐えていたのがわかった。少しでも早く凌辱の残滓を取り去って差し上げたくて、水屋で全て吐き出させ、水で顔と髪を清めた時は、敢えてその抵抗を排した。
 しかし、孫権の中に残された男どもの名残を見ているうちに何も考えられなくなった周泰が、たまらずそのまま孫権を抱いてしまった時、彼は抗うことなく周泰を受け入れた。
 触れる手に甘やかな反応を返すその体は、まるで望まれているかのように錯覚させるほどだった。
 …もちろん、そんなはずはない。
 無抵抗と柔らかな許容が、防衛のための追いつめられた順応ならば、ただただ痛ましい。
 ぴりりと残る背傷の感覚に、周泰は少しだけ眉をしかめた。
 なのに、今この痛みに微かに甘い切なさと、激烈な嫉妬を駆り立てられる己はどこまで愚かなのだろう。
 生来染み付いた冷静は、今も、そしてあの時もほとんど表情を変えさせることはなく、どこか場違いな気遣いを最後まで保たせたが、その実、愚かしい激情はいとも簡単に周泰の理性と思考を奪い去ったのだ。
 手綱を強く握り締めながら、なお思い浮かぶのはかの人のことだけ。
 送った伝令を受けて孫権が退却していればいいが、その可能性は低いと周泰は考えていた。
 おそらく、孫権は兄と直接対峙するつもりなのだ。全力でぶつかり、そして敗れた時には斬られるつもりなのだろう。今までの全てを清算するために。
(…させぬ……)
 孫策軍と孫権軍とに分かたれ相争った二つの孫呉が、再び一つになる時に、もはやかつてに「戻れ」はしないと、どうしても残ってしまう禍根を、自らの命でけじめをつけることで消し去ろうというのだろう。
 そして、凌辱の日々にも終わりを告げようと。
 あの無抵抗が示していた、積み重なった諦めと、残る唯一の腹心にまで裏切られ犯された絶望は、孫権から生きる気力を奪ってしまうのに充分すぎただろう。それを思えば、周泰の心は罪悪感と後悔に打ちのめされる。
 だが、最悪の結末、それだけは、それだけは防がなければならない。
 だから周泰は、先刻退いたのだ。
 孫権の目の届かぬところで、その命を守って死ねるなら本望だった。しかしその可能性に思い当たったとき、ただ守りたいという想いが周泰の意識を支配し、自責の念をひととき凌駕した。
 軽蔑されてもいい、憎悪を向けられてもいい。だが、どんなに拒絶されても、詰られても、その命を奪わせるわけにはいかない。
 間に合うだろうか。
 …いや、間に合わせねばならない。
 さらに馬足を速めた周泰の視界に、孫策の前にうずくまる孫権の姿が映った。

「――――――」

 全てが一瞬のことで、しかしやけにゆっくりと感じられた。
 割り込んだ馬の嘶き。
 振り下ろされる鎖鎌と孤刀がぶつかり合う金属音。
 走り去る蹄の遠ざかる響き。

「……周泰!!」


 そして今も、あの声だけが耳にこびりついて離れない。

 

 合肥の戦いの結果、孫権は一人逃げ落ち、周泰は孫策軍に帰順した。
 孫権の置かれていた状況を伝えれば、孫策は何もかもわかっていたというように笑って言った。
「なあ周泰、一緒に権を取り戻そうぜ!」
 …本当は、自分にはもうその資格はないのだろう。
 どこまでも快活な孫策の姿に、後ろめたさと罪悪感を覚えずにはいられない。
 もちろん、孫権が遠呂智軍の兵に受けていた仕打ちは話していなかった。自分でさえこうなのだ、孫権はあの時孫策と対峙して、どんなに内心苦しんだことだろう。どれほどの凌辱をその身に受けようとなお誇り高く清らかな心は、何一つ自分は悪くなくとも、ひたすらに己を恥じ、責め苛むのだ。
 だが、だからこそ孫権を救うために、まだ死ぬわけにはいかなかった。
 あの時、名を呼んでくれた。あのような事をしてしまった自分の名を、なお。
 目も合わせていない。言葉を交わしたとも言えない。だからまさか許してくれているなどとは思っていないが、孫権のあの声の響きだけが周泰をこの世に繋ぎとめる。
「……有難き…お言葉……」
 その、一刻も早く孫権を救い出したいという周泰の想いとは裏腹に、状況はすぐにはそれを許さなかった。
 いくら大勝し孫権軍の兵を吸収したとはいえ、連戦に次ぐ連戦で孫策軍も無傷ではいられていない。しかも、孫権の行方は知れず、また、孫堅を救いだすのならば、向かうのは敵の本拠に近い場所となる。
 一度孫堅の救出に失敗しているだけに、もう二度とそれを繰り返すわけにはいかなかった。
 そして、こうして長く離れてみると、わかったことがある。
 かつては確かに目の前にあったはずの現実が、今はやけにおぼろげなのだ。孫権のいない世界はひどく自分から遠いものだった。
 実際、それから孫権救出までにあったことを周泰はほとんど覚えていない。
 孫権を助け出すというただひとつのことだけが周泰の意識を埋めつくし、日々繰り返される軍議や、各地での小競り合いもどこか他人事に感じていた。
 ああ俺は、あの方がいないと、こんなにも何もないのか、と思った。
 そんな中、孫権らが公開処刑されるという報せが入って、孫策軍は俄かに騒然となった。
 執行はいつなのか、場所はどこなのか、孫堅はいまも無事なのか、残る孫呉の将兵はどうしているのか、なんと孫権が遠呂智軍に戻っていたとは、処罰が分かっていて何故、もしや死ぬ気では、そんな馬鹿な、いやあり得る。
 将たちが口々に言い合うのを少し離れて眺めながら、周泰は部屋の隅静かに立ち尽くしていた。
 …やはり、戻られていたのか。
 わかっていた。
 今までも、あれだけのことに耐え抜いてこられたのだ、責任感の強いあなたが、残る兵たちを置いて一人逃げるわけがないことも、父君の命を少しでも長引かせるために、最後まで離反しない姿勢を見せ続ける為だろうことも。
 そして、もはや孫呉に自分は戻れぬと思い、自らの命を投げ打つつもりでいるだろうことも。
 どこまでも痛ましいその覚悟を実現させないこと、今はそれだけを考えなければいけないというのに。
 だがどうしても胸のうちで何かがささやく。
 戻った先には、あの男どもがいるのだ、と。
 考えないようにしても、思い浮かべてしまう。
 今頃、何をされているのか、を。
 狂った溶岩のような、怒りとも絶望とも付かぬ思いが内臓を焼き尽くす。
 そして空っぽになった体に残るのはただただ深い闇だ。
 ぐらりと視界が歪んで、周りの音が聞こえなくなった。

 もう、この耳にはあの声しか届かないようだった。

 

 

   

 

 

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