孫権が目を覚ますと、そこに周泰の姿はなかった。
 扉の外にも、気配はない。
 …そういえば、合肥への駐屯が始まるのだった。
 おそらく周泰は日が昇る前に出立したはずだ。
 今まで護衛武将として戦場では孫権のすぐ傍らに控えていた周泰は、今回は本陣から離れた北西の拠点に配置になっていた。
 孫策軍との最終決戦を誰もが意識した戦だ。
 前田慶次らが先鋒で一気に揺さぶりをかけ、中央を曹仁が守る。本陣付近に多数の部隊を控えさせ、戦況に応じて次々と畳み掛けるように送り出す作戦である。周泰は状況によって遊撃、中央を避けて北から迂回してくるだろう部隊の迎撃、あるいは突破された際の最後の砦として敵に当たることとなっている。
 当然本陣で総指揮を採る孫権にとって、しばらく周泰と顔を合わせることがなくなるのは、幸か不幸か。
 ふ、と息を漏らし、体に残された痕を見やる。鬼どもは戯れに適当なところを吸うことはあっても愛撫などはしないから、これはほとんどがあの男のつけたものだ。
 点々と紅く浮き上がる痕は、しかし首元など着衣の状態で見えそうなところには付いていない。
 …本当に気遣いの過ぎる男だ。
 苦笑を浮かべようとして、孫権の表情はそこで固まった。
 冷静、だったというのだろうか。
 ぞっとする。
 周泰はどんな気持ちで自分を抱いたのだろう。
 あの時の周泰の燃える様な鋭い目を思い出す。腕を足を掴んで押さえつける力強い握力。
 いくら孫権が心ひそかに周泰を想っていたとはいえ、有無を言わせず組み敷かれ犯された、紛れもない強姦に、しかし憤る気持ちがまったく起きなかったのは、触れる指があまりにも優しかったせいだろう。まるで、愛されているかのようにすら思えるほどだった。
 …もちろん、そんなことはないとわかっているのだけれど。
 戦乱の世に生まれた孫権は、愛情どころか時には肉欲からですらなく嫌悪や憤怒あるいは無関心から体を奪うことがあるということを知っている。
 なのに、幾度も幾度も後孔に叩きつけられた猛々しい熱を思い出して、今ふたたび身体の芯を疼かせる私はなんて愚かなのだろう。
 だが、どうしても、こんなにも愛しくてたまらない。
 自らの身体を強く抱きしめ、恋しい男の匂いを追った。
 関ヶ原と違って今回は本隊後詰めではなく、はじめから完全な状態の布陣で臨む予定だ。
 そろそろ、孫権自身の出立時間も迫っている。
 吹っ切るように頭を揺らし、孫権は寝室を出て戦装束の準備にかかった。

 

 

 早朝、居城を後にした馬上で、周泰は一瞬だけ後ろを振り返った。
 この世界では黒く澱んだ色の朝もやに包まれて朧ろげな城の輪郭が目の端に映ると、ちりりと胸を刺す疼きと悔恨。
 脳裏には、つい数刻前の孫権の姿がありありと浮かぶ。
 始め、後ろから腰を打ちつけていた周泰は、もっと、体を余すことなく密着させたくて、途中で服を脱ぎ捨て、向き合うかたちに体勢を変えて孫権を抱いた。
 横たえて見下ろした孫権の目からは涙がとめどなく溢れ、それでもはっとするほど美しかった。
 苦悶の嗚咽も怒りの言葉も、聞きたくはなかったからすぐに口を塞ぎ咥内を舌で犯す。
 唾液を絡ませ、吸い込み、噛み付くように口付けながら腰の動きを速めれば、
 背に、腕が回り爪が立てられたのを感じて、どきりと胸が高鳴った。
 込み上げてくるときめくような高揚は、次の瞬間ぞっとするほどの絶望に変わる。

 この腕は、あの男どもの背を抱いたのか――――

 まさか、孫権が遠呂智軍の妖魔に心を許したり、あるいは陵辱されて喜んでいたなどとは思っていない。
 誇り高き心が、汚らしい暴力をどれだけ屈辱に苦痛に感じていたか、想像するまでもない。
 だが、それでも、この目の前で快楽に喘ぐ愛しい人の姿を、
 その紅潮した肌を、潤む碧い瞳を、震える高い声を、しなやかな筋肉で覆われた胸、腹、足を、甘く絡みつく内壁を、
 貪った者どもがいるのだと思うと、たまらなかった。

 決して、手に入らない人だから、諦めていたのだ。
 どんなに触れたくとも、抱きしめたくとも、
 その身を汚すわけにはいかないから、自分を求めてくれることなどあるわけがないから、ただ傍にいられるだけで、信頼のまなざしで見てくれるだけでいいと自分に言い聞かせ、耐えてきたのだ。
 たとえ孫権が他の誰かを愛し、抱き、あるいは万が一抱かれることがあったとしても、自分には何もできない。してはならない。
 彼自身が望んだ行為なら、この思いは不遜。
 だが孫権が身に受けていたのがまぎれもない陵辱であっただけに、猛る激情に歯止めなどきかなかった。
 孫権に非などなく、憎むべきはあの鬼どもでこの怒りは筋違いだとわかっていても、止められなかった。

 泣きたくなるような嫉妬と独占欲を腹に滾らせ、周泰は一層強く孫権を貫いてその中に熱を注ぎ込んだ。

 

「…………」

 やがて間断ない絶頂の連続に孫権が意識を飛ばすと、ようやく周泰は孫権を解放し、牀台を降りた。
 とっくに熱くなっていた湯に布を浸して絞り、適度な温度に冷ましてから丁寧に孫権の体を拭ってゆく。
 存分に精を放ちきった体からじんわりと湧き上がってくる満足感と、激情から我に返った意識が思い知る氷のような絶望とが、胸の中でしのぎを削り、心を掻き乱して吹き荒れる。
 それは、今なお続いていた。

 合肥の地に着き、本陣の北に位置する拠点に入ると、周泰の部隊は先行して陣地を築いていた兵達に迎えられた。
 彼らによってすでに防柵などは出来上がっており、周泰は拠点内を一通り確認してから部隊の編成を整えた。あとは本陣からの命が来るまで待機することとなっている。
 本陣から離れた拠点に配置となったのは幸いだったと周泰は思う。
 孫権は、もうこの顔を二度と見たくないに違いない。当然のことだ。
 己が犯したのは、幾度死罪になってもなお余りある大罪だろう。臣下の分際で、厚き信頼を寄せてくれた主君に暴言を吐き、あろうことか劣情で汚した。
 …だからせめて、彼の目に見えぬところで、
「本陣から伝令!周泰将軍、出撃せよとのことです!」
「……来たか……」
 既に、合肥城に攻め入った先鋒隊は伏兵にかかって敗走したと聞いている。そしてこの伝令の報告によれば、本陣北の橋が孫策軍によって破壊されたらしい。援軍を送ることが出来なくなれば、いくら鉄壁の防御を誇る曹仁とはいえ、勢いに乗った孫策軍の全てを防ぎきることは不可能だろう。
 橋が壊れたということは、孫策軍もそこを通ってこちらの本陣に行くことはできなくなったということを、さらに、援軍を送れなくなったということは、南道に部隊が留まっていることを意味する。となれば、孫策軍が北に迂回してくるのは確実だった。すなわち、ここを必ず通るということだ。
 守らねばならない。何があっても。
「…行くぞ…」
 拠点を保つ兵だけを残し、周泰が部隊を率いて出陣すると、遠くぽつりぽつりと田畑と家の跡が残る平野を、土煙を立てて向かってくる大軍が見えた。
 思ったよりさらに速い。そして、思ったとおり孫策軍の勢いはすさまじかった。南の道が断たれたことで、全軍が一体となって押し寄せてきているようだ。
 両軍が激突すると、たちまち辺りは乱戦の様相を極めた。
 退かせても退かせても立ち向かってくる士気の高い孫策軍の兵らを相手に、周泰も馬を降りて戦っていると、それを見とめた森蘭丸が周泰に向けて駆けてきた。少し離れたその後ろには孫策の姿も見える。
 数合打ちあった後、蘭丸の長太刀を弾き返し、間合いが出来たところで、周泰は刀を一旦鞘に収め、居合の構えをとった。

「周泰様、何故この戦いを止めないのですか!主の行いを正すのも臣の務めではないですか!」
 叫ぶ蘭丸の若い言葉は、孫呉の絆を知る周泰の耳には届かない。しかしまっすぐに忠誠を口にする姿が、まぶしい刃となって周泰に斬りかかる。

「……孫権様は…俺が守る……」

 …何を言うか。
 自嘲がよぎる。
 お前は、守れなかったではないか。
 主が鬼どもに陵辱されているのに気づきもせず安穏と日々を過ごし、
 あまつさえ追い打ちをかけるように無理やり犯したではないか。
 傷ついたあのひとに、己の欲を叩きつけたではないか。

 物狂う胸の懊悩は磨いた武技をわずかに鈍らせる。振るう剣の軌道からいつもの冴えは失われ、周りの状況も相まって、案の定、一度退かねばならない状態にまで追い込まれた。

 

「…まだだ…」

 

 …だが、それでも俺は、あなたを、

 

 

   

 

 

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