始まりは、もうずいぶん前のことだ。
孫策離反の知らせを、孫権は守りを命じられていた呉郡で聞いた。
ちょうど反乱軍との小競り合いを終えたところで、その報告を聞くと孫権は周泰に後の処理を任せ、すぐさま単身夏口に赴き孫策を追った。
けれど一人逃げ出した孫策に対し、結局止めることはおろかその真意を問うことも出来ずに帰還した孫権に妲己は、意外にもひどく楽しそうに告げた。
「あーあ孫権さんたら取り残されちゃってかわいそー。本当なら全員処刑しちゃってもいいんだけど、せっかくだから自分で後始末つけさせてあげよっかなぁ。」
「っ!…ありがとうございます。必ず、必ずや、兄を捕らえてまいります。」
「うふふっ覚悟を決めた男の人ってかっこいい!」
大げさな表情で、からかうように称賛めいたものを投げかけた後、
「お父さんの命のほうが、大事だもんね?」
明らかな、脅迫の言葉だった。
「こっちの部隊も貸してあげるから、早いとこ孫策さんを捕まえちゃってね。」
そう言って送り込まれた遠呂智軍の部隊は、形だけは呉軍の指揮下に置かれるらしいが、実際には監視以外の何物でもない。
もはや、少しの抵抗も許されないのだ、と孫権は絶望とともに理解した。
その夜、呉郡に置いてきた部隊が合流するまで夏口に数日留まることとなった孫権にあてがわれた客間を、遠呂智軍の兵が訪れた。
「おい、命令だ。来い。」
こんな夜半に、とは思ったが、あるいは兄の足取りが掴めたのかもしれない。そう考えた孫権が何も言わず部屋を出ると、扉の外に控えていた兵士が後ろに従った。いつもの、護衛ではない。この兵が見張っているのは、外からの賊ではなく中にいた自分なのだ。
…まるで罪人のようだな、と思って、いや、そうなのか、と思いなおす。
いまや孫呉は、戦に敗れ服従した属国ですらなく、反逆の咎を負い隷従すべき国となってしまったのだ。
沈む思考を巡らしたまま案内された部屋に入った孫権を迎えたのは、酒を飲んでいる数人の遠呂智兵だった。
「おっ、来たか。いや、今度からそっちの軍にお世話になるからよ、御挨拶をと思いましてね。へへ。」
やや呂律の回らない声でそう言った一人が、酒の入った杯を差し出してくる。
「お近づきのしるしにどうぞ。」
「い、いや、私は…」
酔っているだけではない、異様な雰囲気にぎょっとしていると,いつの間にかすぐ近くにいた別の男に肩を掴まれた。
「なっ、何をする!」
「まあまあカタイこと言いなさんなって」
言うが早いか、両手を後ろ手に捕らえられ、更に二人が両脇を固めてあろうことか孫権の上衣を掴んで胸まで肌蹴けさせる。そして、差し出した盃を結局自分で飲み干した男がにやにやと孫権の顎を引き寄せた。
「親睦を深めましょうって言ってんだよ。」
「無礼者!!」
首を振って男の手を払い、睨みつけると、どんっと背後の三人に後ろから突き倒された。
「ぐっ」
後ろ手のまま上半身が直に床にたたきつけられ、痛みが走る。
「無礼者ねえ。あんた、自分の立場わかってんのか?」
見下ろしてくる男の顔は下卑た笑いに歪んでいて、それだけで誇り高い孫権の神経を逆撫でする。いくら隷属国になり下がっているとはいえ、こんな下級の兵士がなぜ孫呉の頭領たる孫家の次男にこのような口をきけるというのだ。
「ふざけるな!」
「…へえ、人質がどうなってもいいんだな。」
「!!」
『お父さんの命のほうが、大事だもんね?』
昼間の妲己の声が甦る。
…そうだ、抵抗は、何一つ。
四肢から力が抜けていくのを感じる。
あの女狐は、どこまで私を辱めれば気が済むのだろう。
「そう、大人しくしてりゃ悪いようにはしねえよ。」
抵抗をやめ、身を固くするだけになった孫権の下衣を下穿ごと男が引き摺り下ろす。さらけ出された下半身に無造作に酒がかけられた。
「っ」
冷たい感触に孫権がびくりと体を震わせる。そのさまを見て男たちがぎゃははと耳障りな笑い声を上げた。
そして、あろうことかそのまま慣らしもせず一人の欲が押し入ってきた。
「ひっ――」
激痛。
「ぐあぁああっ!!」
双丘を割り裂くように両腰を掴まれ、ぎっ、ぎっと不自然な音を立てて内臓が押し広げられていく。
もっと飲めよと繋がった部分めがけて更に注がれた酒は、とろりと濁って多少ぬめりがあるとはいえ、摩擦を和らげるのには不十分すぎる。やがて男の動きが速まり、そして次の男が入ってきても痛みが治まる気配はなく、体を裂かれるような感覚に生理的な涙が出てくるのを抑えられなかった。
(たす…け……)
傷ついた粘膜から染み込む酒のせいか焼き切れるような痛みのせいかぐらぐらする頭の中、一瞬、ある顔が浮かんできそうになって、あわてて打ち消す。
(駄目…だ)
それは、助けてほしい時、常に思い浮かべそして応えてくれた顔であったが、今だけは駄目だ。
こんな時に、その姿を思い出したくはない。
こんな時に、たとえ心の中ででも呼んでいい名ではない。
(……く…)
ぐっと歯を食いしばり、密かに体の痛みからではない涙をこぼした孫権に、
「しばらくは一緒の軍だ。これからよろしく頼むぜ。」
絶望的な内容を告げる声が降り注ぎ、無情の夜が始まった。
後で知ったことだが、これは別に妲己の指示で行われたものではなかった。
あの夜以来、毎晩とは言わないまでも頻繁に呼び出され、相手をさせられているうちにだんだんとわかってきたことがある。
口では孫権に対し「これがお仲間に知られたらどうなるかな」などと揶揄する言葉をかけてくるが、実は奴ら自身も他に知られないようにしていたらしいのだ。
実際、呉軍に送り込まれた遠呂智軍の部隊はいくつかあり兵士も二千に上るが、来るのは、いつも同じ顔ぶれの6人。
そして、そもそも遠呂智軍の兵は基本的に生気に乏しい。妖魔だから当然なのかもしれないが、しかし書物などで見かけたことのある怪異の名をもつ者がいても、伝え聞いた容姿とはまるで似つかぬ平凡な姿をしている。一人ひとり、人格と言えるものはあってもあまり個性がなく、妲己のように強烈な存在感がある妖魔は他には遠呂智自身くらいしかいないようだった。
だから、この男どもは、遠呂智軍にあっては割と特異な存在なのかもしれない。
さらに、意外と言えば意外なことに遠呂智軍は軍規が厳しい。戦場では容赦なく敵を蹂躙するかのように打ちのめすが、戦以外での私刑は固く禁じられているようだった。
それがなぜかは分からない。ただ、それゆえに父をはじめとした囚われの将たちの身柄自体は無事と人質解放の約を信じることができていたのだ。
そうであれば、こんな一介の兵士に過ぎない者どもが人質の命をどうこうできるはずが無い。しかも、反逆の責めを負っているとはいえ、まだ呉の軍勢は各地の反乱軍と対峙しなければならない遠呂智軍にとって有力な戦力といえた。この男どもが孫権の態度を不満に思い孫堅らの処分を上奏したところで、その命が下される可能性は低い。
そうと知っていれば、初めから従ったりなどしなかったものを。
だが、それに気付いた時にはもう遅かった。
「もうやめてもらおう。」
「おっ?…なんだよ、もう親父の命はどうでもよくなったのか?」
「やれるものならやってみるがいい。もう私はいいなりになどならぬ。このことが知られて困るのは貴様らもだろう。」
部屋を訪れたいつもの面々に孫権がそう告げると、男らは少し驚いた顔をした後、しかしまた余裕の表情を浮かべた。
「そーかい。まぁ、別にいいんだけどな。俺らだって好き好んで髭面のヤローを犯りてえわけじゃねえし、可愛い女の子の方がいいに決まってるさ。なぁ?」
――――なん、だと…?
「……確か夷稜から戻ってたよなあ。気の強そうな女が二人。ああ、あとおとなしそうなのも来てたっけか?へへへ。」
……嘘だろう…
「や、やめろ、やめてくれっ!!」
妹と、その友人、そして義姉の姿が浮かぶ。
青ざめた孫権の顔を見て、男たちが嘲るように笑ったが、孫権にとってはそれどころではなかった。
「頼む、それだけは…っ!」
可愛い妹、美しい義姉、気丈だが可憐な徳川の姫君。
万が一にでも彼女らに何かあったら、兄に、家康殿に顔向け出来ない。何より自分自身、大切な、大切な家族たちがこのような者どもに穢されるなど耐えられようはずがない。
「何でもする、だから、それだけはやめてくれ、頼む…っ」
膝から崩れ落ち、懇願する孫権を鼻で笑って男が言う。
「そこまで言うんならしゃあねえなぁ。お前で我慢してやるからよ、せいぜい俺らを満足させるよう奉仕するんだな。」
……そう、それしかないのだろう。
愛しい家族を守るためには、夜の間中、この者どもを自分の元に引きつけておくしかない。
各部屋に見張りの付いた今では、助けに行こうとすれば騒ぎになる。たとえ乱暴を阻止できても、このような話が広まればそれだけで彼女らにとってはあまりに残酷な辱めだ。
あまつさえ、もし、もしも間に合わなかったら…いや、そんなこと、考えたくもない。
おそらくこんなことをしているのがこの6人だけだというのが、不幸中の幸いといえばそうなのかもしれなかった。
「言ってみろよ、『どうぞこれからも可愛がってください』ってな、ひゃはは!」
男どもが吐く侮辱の言葉も、もはや気にしてなどいられない。
…尚香…義姉上…どうか、どうか一刻も早くここから……。
その祈りが通じたのか否か、その後、関ヶ原の戦いで尚香と稲姫が、そして一度戻ってきてしまった時はその優しい心遣いへの感謝と続く危機への恐怖にどうしようかと思ったが、無事姉川の戦いで大喬が孫策軍に降るまで、孫権は毎夜ひと時も気を抜く事ができなかった。
そして、三人がいなくなった時にはすでに孫権の軍は敗戦を重ね、孫呉、そして人質の命を取り巻く状況はより悪化していた。
それに、もう、疲れてしまったのだ。
呼び出され、自ら凌辱者の下に足を運ばねばならない屈辱も、城内もさることながら戦地の陣内で家臣たちが休む幕舎の脇を忍び歩く時のどうしようもない罪悪感も、一つ、決してその前を通るまいとそれだけは頑なに避けてきた部屋の明かりが遠く眼の端に映ってしまった時の泣きだしたいような絶望も、少したりとも薄れることはなかったけれど。
いつかは終わりが来る。
だがそれは、孫策軍が遠呂智勢を打ち倒すか、あるいは孫権が孫策軍との戦いに果てるかした時だろうと、だからまさかこんな形でとは思っていなかった、のに。
「やべ、見つかっちまったか。」
さして悪びれた風もない男の声に、孫権は一瞬の回想から意識を引き戻された。
目を上げれば、見紛うはずもない、黒い長身の姿がある。
…幻で、あってほしかった。
「えーっと、あんた確か、こいつの護衛だったけな。へへへ、どうだ、そんなとこに突っ立ってないであんたも混ざるかよ。」
信じられないほど下劣な内容を投げる男の言葉に愕然とする。
「……ふざけるな……」
周泰の顔はいつも通りそう大きく動いてはいなかったが、しかしはっきりと憤怒の表情を見て取れた。
「おっと、余計なマネはすんなよ。こっちには人質がいるんだからな。」
「…………」
男どもは余裕の態度を崩さない。意識か無意識か、そろりと周泰の手が腰の得物に伸びたのを見て、慌てて孫権は声を上げた。
「駄目だ、周泰」
確かに、目の前の孫権のみならば、こんな軽装の兵士どもを斬り、救い出すのは周泰にとっては容易いことだろう。そのことは孫権が一番よく知っている。
だが、今や孫呉はもはやちょっとしたきっかけですら残った者全員が処分されかねない状況にまで陥っていた。反抗し、今はこの場にいないこいつらの仲間が都合のいい部分だけを適当に妲己らに報告すれば、捕らわれている孫堅らはいとも簡単に殺されてしまう。
そのことがわかったのだろう、周泰はすぐに手を下ろし、ただ眼だけは鬼どもを斬り裂くように燃えている。
「そうそう、ご主人様は邪魔されたくないってよ、ひゃーはっは」
…やめろ、そんな事を言うな。
まさかこんな奴らの言を周泰が信じるとは思わないが、彼の耳にそんな言葉を入れないでくれ。
「でも、見られてる方がイイのかもしれねえな。ほらよ!」
調子に乗った男が、さらに卑しい言葉を重ねながら周泰に見せつけるように体を動かす。
やめろ、腰を振るな。そんなものを見せるんじゃない。
「くふっ」
男が出て行く時に、引き抜かれる痛みに声が避けようもなく出てしまう。そこに甘さなど欠片も入っているはずがないが、周泰の耳にはどのように聞こえているのだろう。
腰から手を離され、支えを失った体がどさりと前のめりに崩れ落ちる。顔を上げられずに、孫権は蹲ったまま床を見つめることしかできなかった。ぱたり、ぱたりと透明な滴が目からこぼれて敷布と床板に染み込んでいく。
「残念だったなあ。てめえの主君がこんな淫売だったとはよ。昼は威張り散らしてるくせに、毎晩俺らのところで腰を振ってやがるなんざ、恥知らずもいいとこだよなあ。」
「……黙れ……」
地を這うような周泰の低い声が、わずかに震えている。珍しいことだった。それが、どれほど彼の内を怒りが満たしているかを表していた。
当然のことだ。主を愚弄されて憤るのは、臣下の務めであるだけでなく権利だ。忠節を誓った相手を貶められれば、すなわちそれはそんなものに仕えている自分自身への侮辱ともなる。
だから、孫権は心底申し訳無いと思った。周泰の、限りない忠義をこのような形で裏切ってしまうとは。
「失望したか?そうだよなあ、やってらんねえよな。自分たちが必死で戦ってるってのに主人は男とお楽しみなんてな。」
周泰の手がきつく握り締められているのが俯いた横目にも見える。なおも続ける男のあまりといえばあまりの言葉に、それでもじっと耐えながら状況を打破する途を探っている。
ある意味、見られたのが周泰だったのは、一番ましだったと言えるのかもしれない。
気性の荒い他の武将であれば、屈辱に耐えきれず斬りかかっていたかもしれなかった。
そうでなくとも、主君を辱められたと一気に遠呂智軍に反旗を翻そうとするか、孫策軍の下に離反しようとするか、あるいは主家の者が敵に媚を売るような国を見限るか、いずれにしてももはやこんなところにはいられないと思うのが普通だろう。その点についてだけは、男の言葉は的を射ている。
しかし、周泰ならば孫呉への忠誠が変わることはない。この最悪の状況にも軽挙妄動して事を荒立てることなく、主家の恥には口を固く閉ざし、期を得て人質を救い出し隷属から抜け出した暁には、父や兄に従い、今までどおり孫呉に忠節を尽くすのだ。…たとえ、孫権に失望したとしても。
だから、こう思うのは私のひどく個人的な想いからなのだろう。
おまえにだけは、知られたくなかった、と。
知られたくなかった。
他の誰でもない、お前に、お前にだけは知られたくなかったのに。
周泰の視線が自分に注がれているのが、孫権には見えずとも気配でわかる。それは孫権の身を案じ、救出の期を窺うものであると知っていても、見ないでくれと叫びたくなる。
お願いだから見ないでくれ。こんな、私を、見ないで――――――
尚香たちのように、どこかで離れてもらうべきだったのか。そうすれば、こんな所を見せてしまうことも、不快な思いをさせることもなかった。
だが、それでも。
手放したくなかったのだ。
顔を合わるとき、どれほど後ろめたくとも、関ヶ原でその他の戦場で忠義の誓いを聞くたび、自分にはそれを受ける資格など無いのだと罪悪感に体中を苛まれても、どうしても、そばに置いておきたいと願ったことが、こんな最悪の結果を迎えてしまうなんて。
「おい、お前もなんか言えよ」
「……!」
男が孫権の腕を掴み、無理やり立たせようとしたのに、周泰が一歩踏み出したその瞬間、
「おいお前ら配置換えだってよ―――……って、なんだよコレ」
扉が再び開き、現れた男のけだるい声に、一瞬、その場の全員に緊張が走った。
が、すぐにそれが外に立っていた仲間の一人と分かると、室内にいた男の一人が声を返す。
「…なんだ、お前かよ。驚かせんじゃねえ。ていうかお前見張りはどうしたんだよ。おかげでこのザマじゃねえか。」
「いや、だから伝令が来てよ、ここじゃアレだからって東の部屋に引っ張ってってそこで話聞いてたんだよ。ああ、そんでな、俺らの部隊はこれから妲己様の軍に編入されるから、合肥じゃなくて小田原に向かえってよ。」
「はあ?急な話だな。で、いつからだよ」
「だから、今からだって。何でも反乱軍の奴らが襲ってきたとかでさ、明日の朝には着いてろっつーからすぐ出発しねえとやべえんだよ。」
「おいおいマジかよ。上の奴らは人使い荒くてホント困るぜ」
「ていうか何?こいつ入ってきたの?」
「あー、まあな。ってああそうか、ほらよ、」
腕を掴まれたままの状態で男らの会話を聞くともなしに聞いていた孫権を、男はそのまま肩を押すようにして前に突き飛ばした。
「っ」
すかさず、周泰が倒れこむ孫権の体を受け止める。硬い革の小手に包まれた腕がしっかと体に回されるのに、一瞬気が遠くなった。
そんな孫権を鼻で笑い、さっさと衣服を整えながら男が二人に向けて続ける。
「…ま、そんなわけだ。俺らはこれから出なきゃなんねえんでな、お前と遊んでるわけにいかなくなったわ。寂しくなるだろうけど我慢するんだぜ、ひゃはは」
「…………」
「おっと、なんだその眼。主君を侮辱するなってか?へっお美しい君臣の紐帯だねえ。まあ、あとはそっちでよろしくやってくれや。」
孫権を抱えながら、斬り裂くような視線を向け続けていた周泰に、一人が吐き捨てるように言うと、遠呂智軍の鬼らは次々と部屋を出て行った。