そんな折、城に賊が現れる事件が起こった。
 たいしたことは無い、数もたかが知れ統率のろくに取れていない三下連中であったが、ちょうど孫権様の寝所の隣室から侵入してきたので、夜警にあたっていた俺が対処したのだった。
 それでも多少の騒ぎにはなり、孫権様はひどく怯えた様子だった。
 あらかた片付けた頃に、彼が室から出てこようとするのを止めたところ、細かく震えながら俺にしがみついて泣かれた。
 彼にとって初めてのことだったらしく、しばらくは不安に苛まれておられたので、夜通しの警護を俺が毎日することにした。
 寝所の扉を閉める際、心細そうに見上げる彼に、ここにいるからと少し微笑んでみせると、こくりと頷いて中に消えていくその背中を、引き攣るような思いで見送った。

 

 そうして、彼から不安の影も消え、もとの明るさを取り戻されたある日の昼下がり、
 ついて来い、と俺の手を引いて孫権様がどこかに向かわれた。
 城の裏手にある林の中、ひときわ薄暗い場所に、高く茂った藪がある。その隙間をわけて抜けると、不思議な空間がそこに現れた。
 ぐるりと周囲を藪に囲まれ、高い木々がそのさらに外側を覆っている。しかし真上からは木漏れ日が差し込み、柔らかな明るさで照らし出されていた。薄く光が届くためか地面には草花が敷き詰められるように咲き乱れていた。
 「…ここは…」
 問うと、うん、と二、三、点在する岩に腰掛けながら教えてくれた。
 「わたしの秘密の場所なんだ」
 もうずっとまえ、ここを見つけたんだ。この地に来てすぐのことだから、おまえと会うそのちょっと前、かな。
 どうしても、一人になりたくて、林をさまよっていたらこのとても綺麗な場所に入り込んでしまった。
 夕方城に戻って、ずいぶん怒られたなぁ。わたしがいないというので皆が方々探し回ったらしい。
 それでも、見つからなかったんだよ。どこにいたんだって聞かれて、山の中をうろうろしてたってごまかしたんだ。
 「だから、兄上も知らないんだぞ」
 秘め事が嬉しいのか、口許に人差し指をあててくすくすと笑う。
 確かに、わかりにくい一角にある。そして、その先に何も無いようにしか見えない藪の中に、入ってみようなどと思うものはいないだろう。
 それこそ、山賊が野営に使っていたのでは、と一瞬考えたが、すぐにそれを打ち消す。色とりどりの花が広がるここに、火を焚いた跡は無かった。本当に、彼しか足を踏み入れていないようだった。
 そのような場所に。
 「何故、俺を…」
 孫権様は急に真剣な表情になると、ぴょんと岩から飛び降りて、俺の目の前に近づいてこられた。
 思いつめたようなまなざしで、まっすぐに見上げてくる。
 「誰にも聞かれずに、おまえと、話したかったんだ。」
 この前、賊から守ってくれただろう?
 街や、港で、不穏な目に遭ったことはある。剣呑な連中も何度も見た。
 けれど、城では、絶対に大丈夫だと思っていたんだ。
 何も知らず寝ていたところに、すぐ、隣で、何者かが這入ってきて、おまえがいなかったら、わたしの部屋にも、と考えたらすごく怖くなって。
 それで、眠れなくなった。だけどそのとき、おまえがずっと傍にいてくれた。昼も、…夜も部屋の前にずっと。
 そうしたらいつの間にか、また城は安心できる場所になったんだ。
 ううん、おまえがいてくれれば、どこだって、安全って思えるんだ。
 感謝、している。
 「…そのような…」
 「いいから聞いて!」

 

 

 そのあとに、続いた言葉を、俺は忘れることができないだろう。
 声がひどく遠く、何か別の世界から聞こえてくるようであったのに、
 今も耳に響いて離れない。
 頭の芯を痺れさせ、命を奪う呪詛のような。

 

 

 ほうびを…やりたいんだ。
 でも、わたしはたいしたものを持っていない。
 国も、軍も、財もみな兄上のものだ。兄上の許可無くして、わたし自身があげられるものは何もないんだ。
 …だから…
 わたしを、あげたい。
 聞いたところによると、財のないゆえに身を、売るものがあるという。
 よくわからないのだけど、言うことを、きけばいいのかな、と思う。

 

 

 なぁ、おまえは、わたしを、欲しいか?

 

 

 …それを、言えというのか。
 思い返せば、はじめて見たときからずっと、そればかりを望んでいた。
 焦がれ、焦がれ続けてきたのだ。
 だが、どれだけの禁忌であることだろう。
 …それを。
 言って、しまったら。

 

 彼の肩が震えている。目を伏せ、唇を噛み締め、何かを耐えるように立ち尽くしている。
 …当然だ。
 何をされるのかわからなくとも、彼のような身分の者が、自身を誰かに差し出すなど、屈辱以外の何者でもなかろう。
 それをおしてこのようなことを言わせるほどのことを、俺は何もしていない。
 ただ、朗らかに、子供らしく生きればよいものを、この少年は。
 こうやって周りに気を使って、心を砕いて。本当に、その優しい心が壊れてしまいそうなほどに。
 わかっている。
 そんなひとに、何を、求めていいものか。
 わかっている。
 本当の望みを、正直に、告げてしまったら、このひとを、傷つけるだけだと。
 そして、軽蔑、されるだろう。
 自ら言い出したことに、もはや撤回など出来ぬと、拒まずにいようとするのだろうけれど。
 もし、是といわれたら、それを叶える覚悟をしているのだろうが。
 …悲痛なほどの…
 覚悟、を。
 けれど本当は、望んで欲しくないはずだ。
 「何もいらぬ」と、
 「何か他のものを」と
 言われることを心のどこかで期待しているはずだ。
 それを、わかっている。
 …だが、声が出ない。
 身の内で衝動が突きあがってくる。
 ずっとずっとずっと。
 飢えてきたのだ。他に何もいらぬとさえ思うほどに、ただただ欲してきたのだ。
 何も考えられなくさせるほど、犯して、その身体の全てに触れて、口付けて、快楽に泣かせたいと。


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