あれは、鬼なのではないか、と。人が言うのを聞いたことがある。
 …そうかもしれぬ。その美しさ。
 赫と碧に彩られた人外の、その姿、この世のものとは思われぬ、その妖艶。
 夢魔に魅入られた自分は、もはや逃げようと思いすらしないのだ。


 口さがない者どもに威圧の一瞥をくれてやってから、俺は、わが主の下へと向かった。
 回廊を抜け、裏庭から小高い丘へと続く道を上る。
 最近ではかなりの量の政務を任されるようになった彼は、その合間には息抜きとして散歩をするのが日課となっている。
 緑の濃くなった木々の中を巡り、ひそやかな清流のふちをたどって少し開けたところで空を眺めるのだ。
 ささやかな散策が、君主の弟である彼にとってひとときの安らぎになるのならと、周囲の者もそれを咎めることはしなかった。
 まだ遊びたい盛りであろう幼き彼が、木の実を採り、沢蟹を捕まえてくるのを誰もがほほえましく思っている。
 ただし身の安全だけはおろそかにしてはならないからと常に護衛がつくことになっている。
 人見知りの激しい彼は、他の者を連れるのをかたくなに拒むらしく、俺の調練が長引いているうちにお一人で出かけてしまうことがたびたびあった。今も、だからこうして彼の後を追っていつもの散歩道を急いでいるのだ。
 …これらはみな、偽りなき事実だ。


  ただ。

 木立の間を歩いていると、ふと空間がゆらりと歪んだ。
 空や川や花の色を切り取って合わせたかのような鮮やかな色彩が目を奪う。

 「幼平」

 神仙というものが本当に存在するならば、きっとこのような姿をしているのだろう。
 …いや、これは、妖の類か。
 揺らめく肢体を抱き寄せ口付ける。
 甘くとろける感触。あのときからずっと。俺はこのあやかしに幻惑され続けている。

 腕の中で彼が、ほぅ、と吐息をもらした。

 

 

 江賊から足を洗い、孫家に仕えることになってすぐ、俺は当主の弟君の護衛役を務めることとなった。
 若き君主の、その弟は当然まだほんの子供で、だが一目見た瞬間、言いようの無い戦慄が体を走った。
 俺の紹介をしているらしい君主の声など耳に入らず、ただ体の震えを抑えるのに必死にならなければいけなかった。
 そんな俺にかまわずそのひとは俺の手をとりこちらを見上げて、
 「孫権だ。…よろしく、幼平。」
 と、朗らかな声で笑った。
 彼が、そんな態度を取ることは珍しいのだと、後になって聞いた。
 控えめで、人当たりがよいが、こと初対面のものにはなかなか打ち解けず、兄の背に隠れるという。
 よほど、気に入られたんだなと笑う君主の言葉に内心ひどく狼狽した。
 それからというもの、俺はほぼ常に孫権様のそばに仕えた。
 もちろんたびたびの遠征に参じる時には、まだ戦場に出られない彼とは離れ、俺は君主の軍に従ずることになっていたが、城にいるときには常に傍らに控えるようにしていた。
 そのころには、彼が兄に言って、俺は、孫権様の臣下になっていた。
 何事にも表現の乏しい自分に、なぜか懐いてくれた幼な子は、いつも屈託無く話しかけ、笑顔を見せ、抱きついてくる。
 それを本当に微笑ましく可愛らしく思っていた。
 けれど夜を疎ましく思うようになったのも同じころだ。
 自室で眠りに就くとき、形のはっきりしない膀とした、しかし強大などろどろとした闇が身の内で蠢くのだ。
 それが何を求めているのか…俺は努めて考えないようにしていた。


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