その出会いから一年。
 呉郡を平定する戦の最中、君主は弟に宣城を守るよう言いつけ、自身は新帝城に向けて発った。
 躍進を続けているとはいえ、未だ新興の孫軍、しかもその兵力のほとんどは当然主軍が連れて行ったため、ここに残っているのは千に満たない兵のみだった。
 「私にさえ任せられると兄上が判断したのだ、さしたる要地ではないここを攻めてくる敵などいやしない」、そう孫権様は仰る。
 しかし、少し年季の入った官はみな口々に防備を増強するように進言した。
 防柵が低い、見張りが少ない、城壁の綻んだところがある、兵卒の訓練が足りていない。
 これらの言を全て孫権様は突っぱねた。
 だがそれも無理も無い。経験が足りぬのは彼のせいではない。もとより平時の内政のほうを得意とされている方だ。
 それに、忠言には若輩の彼を見くびるような響きが含まれているものが多々あった。
 あるいは、主軍に入れなかったことへの不満をぶつけている節さえある。
 それでも無碍に怒鳴りつけたり、咎めたりしないお優しい方であることをいいことに安穏としている貴様らが何を言う、と思う。
 こうして城内を廻り各隊にお声をかけられる、気遣いを兵の一人ひとりにまでなさる方なのだというのに。
 だから俺はそのときは何も言わなかった。ただ、孫権様の身にもしものことがあってはならない。ご自身の執務室に戻られたところで、俺は申し上げた。
 「…孫権様…」
 「なんだ?」
 「…どうぞ、御身の、警護を強化ください…」
 聞いて、孫権様はきっ、と俺を睨み付けられた。
 「っ。お前まで…私に、逆らうのか?」
 「…いえ…」
 俺の言葉を、ふん、と鼻で笑って孫権様が続ける。
 「…お前も、兄上の下に戻りたいのだろう。…当然だ。主軍に従じ、武勲を挙げる、それができる武がお前にはあるというのに、こんなところでくすぶっているなど、 不満に決まっている…」
 薄く笑って口早に投げる言葉の、声が僅かに震えている。
 …不安を感じておられるのか。
 猛々しい武の兄と比べられては自分自身を責め、それでも何かが出来ないかと必死になって、力が足りぬと絶望する貴方。
 だが俺は貴方の他に王たるものなどいないと信じている。
 「私の下から…去りたいか…?」
 貴方の傍のほか、何処に行くという?
 仕えるべき主は貴方ひとり。
 貴方以外の言葉など、耳に入れる気もせぬほど、ただ貴方だけが俺に命を下せるのだと伝えて差し上げたい。
 「…いいえ…」
 強く告げるとびくり、と孫権様は身を硬くした。

 

 すっと膝を折る。

 


  低く、地を這うように平伏し、靴先に口付ける。



  少し上がって衣の裾に。



  そして手を採りその甲へと。



 頭を垂れたまま、目だけでかのひとの顔を見やれば、
 瞳は潤み、眦に朱を走らせ、小さな紅い唇がひそやかにわなないている。
 すぅ、と、音の無い吐息に切なさを込めて吐き出した後はしかし、堂々と。


 「おまえは、私のものだ。」


 ――――――あぁ。
 このひとが、教えてくれた。
 人にかしずく悦びを。
 求められて与えることの充実を。
 口付けは、奪うのでなくて捧げるものと知った。
 魂のすべてを唇から注ぎ入れるように。
 堂々とたたずみ俺を見おろす、
 下から見上げる角度のもっとも美しいひとよ。
 己の体を窮屈なほどに折りたたむのも、今となっては快感だった。


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