『…お逃げを…』
一瞬、彼が見えた。
牛渚での、あの、彼の姿。
「…半蔵。よくぞ来てくれた。」
幻影はすぐに消え、
孫堅の方の縄を切り終えて退路へと促す半蔵に、声をかける。
今はもう、あのときの自分ではない。
父や兄を越えられぬとも、自分なりに孫呉を支える力を培った。
強き絆の、臣たちと共に。
だけどそれは、かつて全身に傷を負いながら彼が自分を救ってくれたからこそ。
少し進んだところで、半蔵は忍にしか通れぬ道を行くらしく、
孫権らに道を示して自分は脇へ逸れた。
「すまなかったな。」
礼を述べた孫権に、半蔵が言う。
「…影の存在、主が生あればこそ。
…あの男、また然り。」
…あぁ。
孫権は笑んだ。
泣きそうな、
嬉しそうな、
嫣然と、
凛と、
切なげに、
堂々と、
けれどそのどれともいえぬ顔で。
現実主義の彼のこと、たとえ孫権が死んだとしても、後追いなどしないだろう。
孫権と、彼自身の志、すなわち孫呉の天下のため、戦い続け、そしてその中でいつか死ぬのだろう。
だがひとたび自分が望めば。
『……地獄までも……従う覚悟なれば……』
どこまでも、共に。
それは決して望んではいけないこと。
けれど望みさえすれば必ず叶うこと。
私が彼にそれを命じることは未来永劫けしてない。
だけど、あぁ、なんて強い、心の支え。
半蔵がいぶかしげに顔を顰めた。
孫権は、一瞬目を伏せ、次の瞬間には晴れやかな君主の顔で言う。
「そうか。ならばやはり、死ぬわけにはいかんな!
父上、参りましょう。
われらが虎の誇り、生きて奴らに突き立ててやりましょうぞ!」
どれだけ追っ手が来ようと、もはや孫権は生還を疑わなかった。
父と、兄と、妹と、臣たちと共に、敵どもに見せつけてやればいい。
孫呉の絆を。
誰にも断つことの出来ぬ、この絆を。
−終−