合肥の戦いの結果、孫権は一人逃げ落ち、周泰は孫策軍に帰順した。
孫権の置かれていた状況を伝えれば、孫策は何もかもわかっていたというように笑って言った。
「なあ周泰、一緒に権を取り戻そうぜ!」
…本当は、自分にはもうその資格はないのだろう。
どこまでも快活な孫策の姿に、後ろめたさと罪悪感を覚えずにはいられない。
もちろん、孫権が遠呂智軍の兵に受けていた仕打ちは話していなかった。自分でさえこうなのだ、孫権はあの時孫策と対峙して、どんなに内心苦しんだことだろう。どれほどの凌辱をその身に受けようとなお誇り高く清らかな心は、何一つ自分は悪くなくとも、ひたすらに己を恥じ、責め苛むのだ。
だが、だからこそ孫権を救うために、まだ死ぬわけにはいかなかった。
あの時、名を呼んでくれた。あのような事をしてしまった自分の名を、なお。
目も合わせていない。言葉を交わしたとも言えない。だからまさか許してくれているなどとは思っていないが、孫権のあの声の響きだけが周泰をこの世に繋ぎとめる。
「……有難き…お言葉……」
その、一刻も早く孫権を救い出したいという周泰の想いとは裏腹に、状況はすぐにはそれを許さなかった。
いくら大勝し孫権軍の兵を吸収したとはいえ、連戦に次ぐ連戦で孫策軍も無傷ではいられていない。しかも、孫権の行方は知れず、また、孫堅を救いだすのならば、向かうのは敵の本拠に近い場所となる。
一度孫堅の救出に失敗しているだけに、もう二度とそれを繰り返すわけにはいかなかった。
そして、こうして長く離れてみると、わかったことがある。
かつては確かに目の前にあったはずの現実が、今はやけにおぼろげなのだ。孫権のいない世界はひどく自分から遠いものだった。
実際、それから孫権救出までにあったことを周泰はほとんど覚えていない。
孫権を助け出すというただひとつのことだけが周泰の意識を埋めつくし、日々繰り返される軍議や、各地での小競り合いもどこか他人事に感じていた。
ああ俺は、あの方がいないと、こんなにも何もないのか、と思った。