月の綺麗な夜だった。ほのかに蒼白い光が差し込み、窓辺の牀台を照らしていた。
 それが、ふと沸き出でた雲が月を覆い、辺りが闇に包まれたその時を狙っていたかのように扉の外に現れた気配に、周泰は静かに 身を起こした。
 音を立てず扉の前まで近づくと、しかしそれが自分の主のものであることに気づき、ひとつため息をついて声をかけようとした。
「……そ…」
 言い終えぬうちに、ぴくり、と扉越しに気配が揺れ、次の瞬間、勢いよく扉が開くと黒い影が飛び込んできた。全力で体当たりするように飛び掛られ、さすがに床に腰をついてしまう。どうしたのだろう、と思う間もなく、目をなにかの布で覆われた。
「…何を…」
 問いかける言葉をさえぎるように、今度は唇を柔らかなもので塞がれる。ふわり、と甘い匂いが立ち昇った。
 …酒を召されているのか。
 絡む舌にわずかに酒香が感じられる。いつもより量は多くないようだったが、このような戯れをするところを見ると、多分主人は酔っておられるのだろう。
「…周泰」
 しばらく濃密な接吻が交わされた後、周泰の上にのしかかる影が囁いた。
「いくらお前といえど、この暗闇では何も見えなかったろう?…そして、今は目を塞がれている…」
 肩に手をつき、上半身をおこしているのだろう、上から降ってくるように声が聞こえる。
「…お前には、私が誰か、わからないはずだ……」
 …何を仰りたいのだろう。確かにあの一瞬では姿を見ることはできなかったが、それでも孫権がわからないわけはないし、聞こえてくる高めの声は紛れもなく愛しい人のもので、触れた唇も、輪郭をくすぐった髭の感触も、腰の上に感じる体重も、彼のものであることは明らかだというのに。
「私は…そうだな、月夜にさまよい出た妖魔かもしれぬのだ。今宵をお前と過ごすために。今ここにいるのはお前の主ではない…少なくともお前には本当にはわからない。…なあ、だから遠慮などするな。気遣いも要らぬ。お前の好きなように、お前が思うように、私を抱いてみせろ。」
「…………」
「私は人ならぬあやかしなのだから、そしてお前は何も見えぬのだから、気にせずお前の想う者を思い浮かべて好きに抱け」

  その言葉が紡がれ終わるや否や、二人の身体はぐるりと反転し、激しく唇が絡み合った。
「んっ、んぅ…」
 貪るように舌を吸い、髪に手を差し込んで撫で下ろすと背に至った腕でそのまま抱き上げ、牀台に落とす。
 ばさりと夜着を脱ぎ捨て、その上に覆いかぶさった。
「周泰…」
――『お前には私が誰かわからないのだから何をしようとも許されよう』――――
 …いつもならば、そのような詭弁めいた言葉遊びに付き合ったりなどしない。
 何をどう言おうと、周泰にはそれが孫権であることがわかっていたし、どんな状況下でも、彼を傷つけるようなことはしてはならない。
 もう幾度となく閨を共にしてきたとはいえ、周泰が臣たる態度を崩したことは一度たりとてなかった。自分が抱いているのは主君、貴き人であることは常に意識にあったし、己がうちにある狂暴を強く自覚している周泰は、それを深く押し込め、ただなるべく穏やかに、慎ましやかに孫権を抱くようにしていた。
 自分のものになるような人ではないのだ。このような激情のままに彼を抱き、いつか壊してしまうことなどあってはならぬのだ。
 それが、今宵にかぎっては誘われるままに心の箍を外してしまったのは、彼の唇に残る酒気に酔ったせいか。あるいは月の光に中てられたか。
 だがそれはおそらく二人ともであった。譫言のような言葉に潜めて、主従の壁を、全ての枷を忘れてただ心のままに自分を求めてくれと叫ぶ孫権の声はあまりに切なく甘く、周泰の理性と躊躇をきりきりと引き裂いて、互い狂気めいた月明かりのもと交わりあった。
「ああ…」
 噛み付くように孫権の喉に歯を立てた周泰に、孫権が熱く蕩けた声を漏らす。
 ぞくぞくと周泰の身体の奥底から、締め付けられるような歓喜と情動が沸き起こった。
 意識は冴え冴えと醒めきっていながら、頭の芯がぐらぐらとする。視覚を奪われた身体は他の感覚を研ぎ澄まし、高く甘い嬌声を胸に響かせ、肌の甘露を喉に撒き散らし、蟲惑的な髪の芳香を腹に染みわたらせ、指先の触れる起伏と熱と潤いとを余すことなく昂りへと伝えた。

  …ああ、あなたが……欲しい。

  いつだって、欲しくて欲しくて堪らなかったのだ。
 渇きを潤し飢えを癒すただひとつの魂、あなたを喰らうことができるなら俺は、もう。


  自ら差し出された最愛の獲物を前に、周泰は暫し人であることをやめた。




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