失えぬものが増えすぎた
大人になったらきっと、想いを通わせ合うことができるのだと思っていた。
  
  まだその意味を知らずに、一番傍にいた大きな男に口付けたのはいつのことだったろう。
  目を覗き込んで笑う私に、少し困ったような顔をして、大人になったときに本当に好きな人にするようにと彼が諭したのは。
  それから何年かがたち、親愛の情はいつしか恋慕へと姿を変え、それでもまだ、幼き恋はまぼろしにすぎぬのだと、世に出、多くの人と触れれば、これは雛が初めに見たものを親と思い込むようなものに過ぎなかったのだとわかるからと、憧れや、感謝の念を勘違いしているだけなのだと静かに彼が首を振ったのは。
  珍しく私の言葉を遮るように言った彼に、それ以上何も言えなくなった。そんなことはないと叫びたかったけれど、声が出なかった。
私もどこかで、もしかするとそうやもしれぬと思っていたのだろう。
けれどこの胸の中変わらぬ想いだけが今も。
成長した私は、しかし一人の大人の男・孫仲謀ではなく、「孫呉の君主」になってしまった。
  もう、この心を一つのものにのみ向けることは許されない。
  何もかも捨ててその腕の中に飛び込むことは出来ない。
  子をなし次代に繋げるため妻を娶り、民と将兵の幸せだけを願って。
ただの主と臣下、その垣根を越えることをきつく己に戒めて。
酒宴で肩を抱いたこともある。
  傷を見せろと吐息が触れる距離まで顔を寄せたこともある。
  酔いつぶれた私を抱えて寝所に連れて行ってくれたこともある。
  君命だと無理を言って共寝をさせたこともあった。
  交わる視線が切ない色を帯びても、
  触れた後の肌が熱く燃え上がっても、
  隠し切れぬ胸の高鳴りが互いの耳に響いても。
  それでも彼はその態度を変えようとはしなかった。
そして私もそれを咎めることはしなかった。
多分私にはわかっていた。
  彼が、私を愛してくれていることを。
  多分彼も知っていた。
  私がずっと、彼を愛していたことを。
  
  
  きっと私たちには、失えぬものが多すぎた。
  無邪気に恋の成就を願えたのは、もう遠き幼き日。
この両肩に、国を背負ったあの時から、失えぬものが増えすぎた。
無言で背を向け立ち去るお前。
それをただ見送る私。
そうして何も言い出せぬままに時がたち、やがて、
  
  
私はもっとも失いたくなかった男を失った。
何一つ、言えないままに。
  
  
帝位に就くあたりの時期、回想しているイメージ。
重責と自制と死別は孫権を書く際の永遠のテーマだと思うのです…